第019話 学食の席
昼休みの学食は、いつも席を探すところから始まった。
食券を買う列と、食べ終わったトレーを返す列と、席を探して立ち止まる学生が、通路で少しずつぶつかる。智也はカレーの皿を載せたトレーを持ったまま、空いている席を見つけられずにいた。
味噌汁の椀が熱い。
指の腹に熱が移って、持ち替えたくなる。けれど片手でトレーを傾けると、カレーが皿の端に寄る。智也は小さく息を吐いて、窓際のほうを見た。
「杉浦、こっち」
山内が手を上げていた。
窓際の四人席のうち、二つが空いている。山内の向かいにはリュックが置かれていたが、智也が近づくと、山内はそれを足元へ引いた。
「助かった」
「そこ、すぐ埋まるから」
智也は向かいに座った。
山内のトレーには、大盛りの唐揚げ定食が載っていた。唐揚げは五つある。小鉢も二つある。午後に講義がある日にこの量を食べるのか、と少し感心した。
「それ、食べきれるの」
「余裕」
山内は割り箸を割りながら言った。
「杉浦はいつもカレーだな」
「早いから」
「分かる。並ぶの短いし」
カレーはぬるくはないが、熱くもない。学食のカレーの温度だった。智也はスプーンで少し混ぜる。じゃがいもが一つ、皿の端で崩れた。
「午後、英語だっけ」
山内が聞いた。
「そう」
「だるいな」
「まだ始まったばっかりだろ」
「始まったばっかりだから、だるいんだよ。慣れてないから」
山内は唐揚げを一つ口に入れた。
こういう会話は楽だった。
中身があまりない。返事を間違えても、たぶん大きな問題にはならない。英語がだるい、学食が混む、唐揚げが熱い。そういう話なら、どこで相づちを打っても、次の言葉が勝手に出てくる。
智也はカレーをすくいながら、窓の外を見た。
中庭の木の葉が、風で少し揺れている。雨は降っていないが、空は白っぽく曇っていた。梅雨前の、湿った明るさだった。
「小テスト、来週だっけ」
山内が思い出したように言った。
「たぶん」
「たぶんって。範囲見た?」
「見たけど、覚えてない」
「それ見てないのと一緒じゃん」
「見たことは見た」
「言い方だけ真面目」
山内は笑った。
智也も少しだけ口の端を動かした。
高校の時の友人とは違う。まだ、山内のことをよく知らない。どこの出身か、家族が何人いるか、何が好きか。知っているのは、経済学部で、英語の先生の声が小さいことに文句を言っていて、昼に唐揚げを五つ食べるくらいだった。
そのくらいでよかった。
智也はカレーをすくった。学食のスプーンは少し薄く、指に当たるところが硬い。家のスプーンとは違う。東京の部屋の棚にあるステンレスのスプーンとも違う。誰のものでもない、大学の食器だった。
それを使っている間だけ、部屋のことをあまり考えずに済んだ。
前の席の学生が立ち上がり、トレーを持って通路へ出る。すぐに別の二人組がそこへ座った。席は空いている時間より、誰かに使われている時間のほうが長い。昼休みの学食では、空白がすぐ埋まる。
智也はその速さが少し好きだった。
誰かの場所だった席が、次の誰かの席になる。それだけで、深い意味はない。
隣の席では、女子学生たちがスマホを見せ合っている。後ろの席では、誰かがレポートの締め切りを勘違いしていたらしく、声を上げていた。食券機のほうから電子音がする。トレーのぶつかる音、椅子を引く音、誰かの笑い声。
学食全体はうるさかった。
そのうるささの中にいると、自分のことを細かく考えなくて済む。
「杉浦んちって、大学から近いんだっけ」
山内が何気なく聞いた。
「まあ」
「いいな。俺、乗り換えめんどい」
「近いってほどじゃない。駅から歩くし」
「どれくらい?」
「駅から十分ちょっと」
「近いじゃん」
「信号あるし」
「信号あっても近いだろ。俺なんか、電車遅れたら全部終わる」
山内は味噌汁のふたをトレーの端へ寄せた。
「朝、満員?」
「そこまでじゃない」
「いいなあ」
「いいなばっかりだな」
「だって普通にいいじゃん」
普通にいい。
その言い方は間違っていなかった。大学に通うには、たぶんだいぶいい。乗り換えはない。遅くなっても帰れる。雨の日の近道も覚えた。鍵の癖も、換気扇の遅れも、コンロの右側だけで足りることも、もう分かっている。
分かっていることが増えた。
その分だけ、説明しにくくなった。
「朝、ちゃんと起きられる?」
山内が聞いた。
「起きるしかない」
「俺、一限の日ほんと無理」
「来てるだろ」
「来てるけど、半分寝てる」
「寝てたら来てないのと同じじゃない」
「出席はしてる」
山内はそう言って、唐揚げの最後の一つにレモンを絞った。レモンの汁が少し飛び、トレーの端に小さな点を作った。
智也はその点を見た。
こういうどうでもいいものを見ている間は、返事がしやすい。山内の会話は、時々どこにも残らない。その軽さに、助けられていることがあった。
「でも一人暮らしだろ」
「うん」
「家賃高くない?」
智也はスプーンを止めた。
カレーの皿の中で、ルーが少しだけ流れた。山内は何も変なことを聞いていない。一人暮らしの学生に、家賃を聞く。大学ではよくある話なのだろう。実際、ガイダンスの時にも、誰かが家賃の話をしていた。
「親戚のアパートだから」
智也は答えた。
「ああ、前言ってたやつか」
「たぶん」
「いいな。そういうのあるの」
山内は悪気なく言った。
親戚のアパートで安く住めている。
それだけで済む話だった。家賃が安い。大学に通える。古いけど暮らせる。山内は「いいな」と言って、唐揚げを食べて、英語の話へ戻るはずだった。
智也はカレーを口に入れた。
味は普通だった。
「部屋どんな感じ?」
山内が聞いた。
「古い?」
「古い」
「でも一人なら十分?」
「まあ」
「親戚の人、近くに住んでんの?」
「下のほう」
「管理人みたいな?」
「そんな感じ」
山内は味噌汁を飲み、少し顔をしかめた。
「あっつ」
それからまた、何も考えていない顔で続けた。
「いいな。俺もそういう部屋あったら、通学だいぶ楽なんだけど」
智也はスプーンを持ったまま、皿の端を見た。
親戚のアパート。
そう言えば済む。
言えば済む言葉が、ちゃんと手元にあった。




