第020話 死んだ兄貴の部屋
親戚のアパート。
そう言えば済む言葉が、ちゃんと手元にあった。
学食のテーブルの上には、カレーの皿と味噌汁の椀がある。山内は向かいで唐揚げを食べている。窓の外は曇っていて、中庭の木の葉が少しだけ揺れていた。
「いいな。俺もそういう部屋あったら、通学だいぶ楽なんだけど」
山内は軽く言った。
それだけだった。
智也は「まあ」と返せばよかった。古いけど、と付けてもよかった。駅から歩くし、と言ってもよかった。どの返事でも、たぶん会話はすぐ別の話へ流れた。
でも、智也は別の言葉を選んだ。
「死んだ兄貴の部屋」
山内の箸が止まった。
智也は、自分の声が思ったより平らだったことに気づいた。声を荒らしたわけでも、暗くしたわけでもない。食券機の場所を教える時と同じくらいの温度で、そう言った。
隣のテーブルでは、女子学生が笑っている。
食券機のほうから電子音がした。誰かがトレーを落としかけて、椀のふたがかたんと鳴った。学食全体はうるさいままだったのに、智也と山内の間だけ、音が少し落ちた。
「あ」
山内が言った。
それ以上、すぐには続かなかった。
智也はスプーンでカレーをすくった。
じゃがいもが崩れて、ルーに沈む。口に入れる。さっきまで普通だった味が、急に重くなった。
山内の視線が、智也の顔と皿の間で止まっているのが分かった。
見ればいいのか、見ないほうがいいのか、山内は迷っている。箸でつまんだ唐揚げから、衣のかけらが一つ皿に落ちた。山内はそれに気づかない。
智也はそのかけらを見ていた。
どうして今それを言ったのか、自分でもすぐには分からなかった。
聞かれたから答えた。嘘は言っていない。部屋は死んだ兄貴の部屋だ。家賃が安いのも、親戚のアパートなのも、そこに亮介が住んでいたから自分が入れたのも、全部本当だった。
本当の中から、いちばん相手が困るものを選んだ。
「ごめん」
山内が言った。
「いや」
智也は顔を上げなかった。
「別に」
別に、ではなかった。
山内は困っていた。困らせたのは智也だった。親戚のアパートで済ませればよかった話を、わざわざそこまで言った。
「その、知らなくて」
「言ってないし」
「そっか」
「うん」
会話はそこで一度切れた。
山内は唐揚げを箸で持ったまま、皿の上へ戻した。何か言ったほうがいいのか、言わないほうがいいのか、迷っているのが分かった。智也はその様子を見て、またカレーを口へ運んだ。
何をしているのだろうと思った。
兄の死を、こんなところへ持ってきた。
学食のテーブル。ぬるくなり始めたカレー。大盛りの唐揚げ。午後の英語。そういう会話の中へ、死んだ兄貴の部屋、と置いた。
置けば、相手が黙ることを、どこかで分かっていたのかもしれない。
山内は知らなかった。
知らないまま、普通の質問をしただけだった。一人暮らし、家賃、通学、部屋の古さ。大学の昼休みに出てもおかしくない話ばかりだった。そこに、智也が別の重さを持ち込んだ。
山内の皿の唐揚げが、まだ二つ残っている。
さっきまであんなに早く食べていたのに、今は箸が遅い。
「午後の英語、教室どこだっけ」
山内が言った。
声は少しだけ明るく作られていた。
「三号館」
「遠いな」
「十分あれば着く」
「食うの急がないと」
山内は無理に笑った。
智也も、少しだけ口の端を動かした。
それで会話は戻ったように見えた。
でも、戻ってはいなかった。
山内はそれ以上、部屋のことを聞かなかった。家賃のことも、親戚のアパートのことも聞かなかった。兄のことも聞かなかった。
その気遣いが分かったから、余計に居心地が悪かった。
聞かれたくないなら、最初から言わなければよかった。
知られたくないなら、親戚のアパートだとだけ言えばよかった。
智也はカレーを食べ終えた。
味はほとんど残らなかった。
「行く?」
山内がトレーを持って立ち上がった。
「うん」
二人で返却口へ向かった。
返却口の前には少し列ができている。山内は空の皿をトレーごと滑らせ、味噌汁の椀を重ねた。智也も同じように皿を置いた。食べ終わったものは、みんな同じ場所へ戻る。カレーの皿も、唐揚げの皿も、誰かのうどんの丼も。
「三号館って、外通るよな」
山内が言った。
「通る」
「雨降りそう」
「まだ降ってない」
「降ってからじゃ遅いんだよ」
山内はいつもの調子に戻そうとしていた。
智也はそれに乗った。
「傘、持ってないの」
「持ってない」
「じゃあ遅いな」
「そういう言い方」
山内は少し笑った。
その笑い方は、さっきより自然に見えた。けれど、完全に戻ったわけではない。戻ったふりをしているだけかもしれない。たぶん、智也も同じだった。
英語の教室は、予想通り遠かった。
外の渡り廊下を通ると、空気が湿っていた。雨はまだ降っていない。中庭の土の匂いだけが少し濃い。山内は「小テストやだな」と言い、智也は「まだ来週」と返した。
普通の会話だった。
普通の会話に戻すための会話でもあった。
午後の講義中、智也は何度も学食での自分の声を思い出した。
死んだ兄貴の部屋。
短い言葉だった。
それだけで、山内は黙った。
英語の先生の声は、相変わらず小さかった。
前の席の学生がノートを取っている。斜め前の学生はスマホを机の下で見ている。窓の外は曇ったままで、雨はまだ落ちていない。教室の蛍光灯が白く、机の上のプリントを平たく見せていた。
智也はプリントの英文を目で追った。
意味は入ってこなかった。
隣の席で山内がシャープペンを回している。昼のことがなかったように、普通に講義を受けているようにも見える。けれど、山内がもう一度こちらを見ることはなかった。
講義が終わる少し前に、雨が降り始めた。
窓の外の通路に、小さな点がいくつもつく。学生たちが一斉に外を見た。誰かが「傘ない」と言い、別の誰かが笑った。教室の空気が少しだけ動く。
山内も窓を見た。
「降ったな」
小さく言った。
「うん」
「傘ある?」
「ある」
「ちゃんとしてる」
山内はそう言って、すぐに前を向いた。
その言葉も、昼の前なら何でもなかったはずだった。智也は返事をしないまま、プリントの端を指で折った。紙の角が白くなった。
亮介はもういない。いないのに、その言葉だけで人を止められる。学食のざわつきの中でも、英語の先生の小さい声の中でも、その一言だけはやけにはっきり残った。
便利なんて思っていない。
思っていないはずだった。
でも、使った。
それだけが、午後の教室まで残った。




