第021話 目を逸らす
夕方、雨が降りそうな空になった。
英語の講義が終わって外へ出ると、空気が重かった。まだ降ってはいない。けれど、地面の匂いが先に濡れているような感じがした。
山内とは校門の手前で別れた。
「じゃあ」
「うん」
それだけだった。
山内はそれ以上、部屋のことを聞かなかった。昼のことにも触れなかった。智也も何も言わなかった。二人の間に何かが残っているのは分かったが、それを持ち上げるほどの言葉はなかった。
駅から商店街を抜けるころ、空はさらに暗くなっていた。
八百屋の前を通る。雨除けのビニールが下ろされ、店先の段ボールが少し奥へ寄せられている。クリーニング店の角を曲がる。狭い路地へ入る。信号に引っかからない道。
もう覚えている。
どこで曲がればいいか、どの段差で靴の先が引っかかるか、どの家の室外機の前だけ風が強いか。考える前に足がそちらへ向く。
近い。
便利。
その言葉を口にしなくても、足は狭い路地へ入っていた。
アパートの外階段を上がる。
二階の廊下には、湿った風が抜けていた。隣の部屋の前に、濡れた傘が立てかけてある。智也は自分の部屋の前に立ち、鍵を出した。
差して、少し持ち上げる。
回す。
開く。
靴を脱ぎ、リュックを床に置く。電気をつける前に、薄暗い部屋の中で棚の位置が分かった。低いテーブルの角だけは危ないので、少し大きく避ける。
自分の部屋みたいだった。
智也は電気をつけた。
蛍光灯が一度だけ小さくちらついた。
その間に、部屋の輪郭が少し遅れて浮かぶ。窓、カーテン、低い棚、洗面所の入り口。見えなくても分かるものが増えていた。最初の夜は、どこに何があるのか分からず、床の段ボールに膝をぶつけた。
今はぶつからない。
それはいいことのはずだった。
白い明かりが、部屋の中のものを一つずつ見せる。
棚の上の名刺入れ。
台所の白い皿。
壁際のハンガー。
延長コード。
窓のそばの青いタオル。
洗面台の棚。
名刺入れは黒くて、角が擦れている。皿は少し欠けている。ハンガーには、昨日脱いだシャツがかかっている。延長コードにはスマホの充電器が差さっている。タオルは窓のそばで、朝の水を少し吸ったまま畳まれている。
捨てる理由は、いくらでも作れた。
でも、今日でなくてもいい理由もある。
部屋の中のものは、そういうものばかりになっていた。
使う理由がある。捨てない理由もある。残しておく理由ははっきりしないのに、なくすほどの理由もない。少しずつ、部屋の中で場所が決まっていく。
黒い傘は玄関の端。
コンビニで買った傘はその隣。
洗濯ばさみは窓際。
大学の冊子は低い棚の右側。
名刺入れは、その左側。
誰が決めたわけでもない。智也が置いて、使って、動かして、また置いた。それだけだった。
智也はリュックから教科書を出し、低いテーブルの上に置いた。
昼に言った言葉が、また戻ってくる。
死んだ兄貴の部屋。
この部屋は、確かにそうだった。
嘘ではない。山内に嘘をついたわけではない。けれど、嘘ではない言葉なら何でも言っていいわけではなかった。言えば相手が止まることを、たぶん分かっていた。
智也はコンビニの袋を開けた。
帰りに買った弁当を低いテーブルに置く。白い皿には移さなかった。パックのまま、割り箸で食べた。そうしたかったからではなく、皿を洗うのが面倒だったからだ。
冷えた唐揚げが二つ入っている。
昼の山内の唐揚げを思い出して、すぐにやめた。別に似ていない。学食の唐揚げとコンビニの唐揚げは違う。考えるほどのことではない。
白いご飯の端が少し固くなっていた。
電子レンジで温めればよかったのに、そのまま食べ始めてしまった。途中で温め直すのも面倒だった。唐揚げの下のスパゲティは油っぽく、割り箸の先にまとまってついた。
こういう食べ方を、母が見たら何か言うだろうと思った。
ちゃんと食べてね。
あのメッセージはまだ返していない。
食べ終わって、パックを袋に入れる。
燃えるごみの日は明日ではない。智也は袋の口を軽く結び、台所の隅に置いた。部屋の中に、少しだけ油の匂いが残る。
換気扇を回す。
スイッチを押して、一秒、二秒、三秒。
遅れて、大きな音が鳴り始めた。
その音にも、もう驚かない。
驚かないことに、いちいち驚くのも面倒になっていた。
油の匂いはすぐには抜けなかった。
窓を少し開ける。外の湿った空気が入ってくる。雨はまだ細かく、外階段の手すりを薄く濡らしていた。窓の下には、朝の水滴を拭いた青いタオルが畳んである。
智也はそれを広げ、窓枠を軽く拭いた。
手が勝手に動く。
言わなくていいことを言った口も、近道を選ぶ足も、濡れた窓を拭く手も、あとから理由を探す前に動いていた。
智也は洗面台へ行った。
水を出して、手を洗う。蛇口の根元には、薄い水あかが残っている。前にこすったところだけ少し薄くなったが、完全には落ちていない。
蛇口を閉めても、排水口の奥で水が少し鳴っていた。
智也は手の甲についた水を振った。
小さな水滴が洗面ボウルに落ちる。白い陶器の上で、点になって散った。タオルで拭けばいいのに、少しの間そのまま見ていた。見ていても何も変わらない。水は丸いまま、ただそこにある。
指先が冷えていた。
顔を上げる。
鏡の中に、自分がいた。
右端は白く曇っている。だから、顔の端が少しぼやける。智也はいつものように左側に立っていた。中央に立つより、そうしたほうが見やすい。見やすい位置を、もう知っている。
疲れた顔をしていた。
目の下に少し影がある。髪が伸びてきた。口元が父に似ている、と母に言われたことがある。亮介に似ていると言われたことは、あまりない。
似ているとは思わなかった。
思いたくなかった。
ただ、見ていたくなかった。
智也は鏡から目を逸らした。
棚の扉は閉まっている。
中に、前に奥へ押し込んだものがある。
それも分かっていた。
手を伸ばせば開けられる。開ければ、歯ブラシの替えと石けんの箱の向こう側に、透明なカバーが見える。前より少し奥へ押し込んだ場所にある。
智也は棚を開けなかった。
水滴のついた手をタオルで拭く。
布は少し湿っていた。窓の水滴を拭いたタオルとは別の、洗面所のタオルだった。どちらも、もうこの部屋の中で役割が決まっている。
洗面所の明かりを消した。
鏡の中の自分も、棚の扉も、そこで見えなくなった。




