第022話 八時十三分
次の週の朝、智也は目覚ましを止めた記憶がなかった。
スマホの画面には、八時十三分と出ていた。
一度まばたきをして、もう一度見る。数字は変わらない。経済学の小テストは一限の最初にある。九時からだった。
「やば」
声が寝起きで割れた。
智也は布団を跳ねのけた。床に置いたリュックに足が当たり、中からプリントの端がはみ出した。昨日の夜、そこまでやるつもりで問題集を開いた。シャープペンを握っていたところまでは覚えている。
その先がない。
机の上には、開いたままの教科書と、ふたを閉め忘れたペンケースがある。ペットボトルは半分だけ残っていて、中の水はもうぬるい。飲むと、寝起きの口の中に変な苦さが広がった。
智也はカーテンを開けた。
外は薄く曇っていた。雨は降っていないが、窓の下のほうに細い水滴がついている。拭く時間はない。そう思ったのに、手は窓辺の青いタオルを取っていた。
窓枠を一度だけなぞる。
やってから、今それではないと気づいた。
「何してんだよ」
自分に言って、タオルを戻す。
床のリュックを起こし、プリントを中へ押し込む。小テストの範囲は半分くらいしか頭に入っていない。半分も怪しい。午後にはコンビニの面接もあった。履歴書はクリアファイルに入れて、昨日のうちにリュックの背中側へ挟んである。
それだけは、ちゃんとしていた。
スマホの通知欄には、山内からのメッセージが一つ残っていた。
小テスト範囲、五章までで合ってる?
昨日の夜に来ていた。智也は返した記憶がない。画面を開くと、未読のままだった。合ってる、と打とうとして、今さら返しても遅いと思い直す。山内が起きているかどうかも分からない。
それに、五章までで合っているかも少し怪しかった。
スマホを伏せ、机の端に置く。
智也は椅子の背に掛けっぱなしのシャツを取った。しわがある。手で伸ばしてみたが、あまり変わらない。上から薄いパーカーを着れば目立たないだろうと思うことにした。
靴下が片方見つからない。
ベッドの下を覗き、低いテーブルの下を探す。昨日脱いだジーンズの中から丸まった靴下が出てきた。洗ってあるのか少し迷い、匂いをかぐのはやめた。
顔だけ洗えばいい。
シャワーを浴びる時間はない。髪は寝癖がついているが、濡らして押さえれば何とかなる。歯磨きはする。面接がある。そういう順番を頭の中で並べているうちに、また一分経っていた。
スマホは八時十七分になっていた。
洗面台へ行く。
蛇口をひねると、最初に少しぬるい水が出て、それから冷たくなった。顔に当てる。目の奥が少しだけ覚めた。排水口の周りで水が細い音を立てる。
歯ブラシを取る。歯磨き粉のふたがうまく開かず、親指の腹に白いものがついた。水で流す。歯を磨いている間も、視線は鏡ではなくスマホのほうへ行った。時間を見ても早くなるわけではないのに、見ないと落ち着かなかった。
鏡の右端は白く曇っている。
智也は、いつものように少し左へ立った。立とうと思ったわけではない。そこが見やすいから、身体が先に動いた。
タオルで顔を拭く。
鏡の中の顎に、薄い剃り残しがあった。
大学だけなら、そのままでもよかった。小テストで誰かに顔を近づけるわけではない。けれど、午後の面接で、店長らしい人と話す。バックヤードの小さな机を挟んで、たぶん向かい合う。
右の口元にも少し残っている。
智也は洗面台の棚を開けた。
自分のカミソリは、なかった。
正確には、空の袋だけがあった。透明な袋が、洗顔料の後ろで丸まっている。三本入りの最後の一本は、昨日の夜に捨てた。捨てたはずだ。ごみ箱の中に、白い柄が見えた気がする。
ごみ箱を覗く。
ティッシュと、丸めたレシートと、昨日の弁当の割り箸の袋が入っていた。その隙間に、白い柄が一本見えた。刃の部分はティッシュにくるんである。自分でそうしたのに、少しの間忘れていた。
もう一度使う気にはならなかった。
ごみ箱を足で端へ戻す。
買い置きはない。
歯磨き粉の箱の裏も見る。石けんの箱をどかす。洗剤の詰め替えの陰も見る。ないものはない。
スマホを見る。
八時二十一分。
秒の数字だけが、妙に早く変わっていく。
洗面所の床が、足の裏に冷たかった。
今からコンビニへ行って買う時間はなかった。駅の売店にあるかもしれないが、そこで買ってどこで剃るのか分からない。大学のトイレでやるのも嫌だった。
棚の奥に、透明なカバーが見えた。
見えた、というより、あることは知っていた。
昨夜、智也は棚を開けなかった。開けなかっただけで、中の位置までは分かっていた。石けんの箱の向こう側。歯ブラシの替えより奥。前に押し込んだままの場所。
兄のカミソリだった。
銀色に見える柄の根元に、白い跡がある。前に押し込んだままの場所に、そのまま残っていた。
智也は手を止めた。
洗面所の明かりが白く、棚の中のものを平たく見せている。歯磨き粉、洗顔料、石けん、空の袋、古いもの。どれもただの生活用品だった。
急いでいる。
他にない。
それで済むはずだった。
智也はもう一度、鏡の中の顎を見た。剃り残しは小さい。けれど、気になり始めるとそこだけがやけに目につく。面接の人がそこを見るとは限らない。小テストの点に関係もない。
でも、手は棚の奥へ伸びた。
使わなければいい。
そう思って、一度指を引いた。マスクをして行けば隠れるかもしれない。けれど、面接で外してくださいと言われたらどうするのか分からない。そもそも今はもう、剃り残しの場所を知ってしまっている。
知ってしまうと、ないことにはできなかった。
歯ブラシの替えの箱に指が当たり、少し斜めになる。石けんの箱を押さえながら、透明なカバーのついた柄をつまむ。
思ったより軽かった。
水あかの跡が親指に触れる。乾いているのに、少しざらついた。
八時二十三分。
迷っている時間はなかった。
智也は、兄のカミソリを洗面台の上に置いた。




