フミ 『空を駆ける』
「明日の夜、こいつを殺せ」
机の上には、標的の顔と住所を書いた紙。その上に短刀。
フミは黙って受け取った。
◇
……かすかに残る幼少期のころの記憶も、良い記憶ではなかった。
愛情の乏しい家庭に生まれ、やがて森に捨てられた。
道に迷っていたフミを拾ったのは盗賊の一団だった。
普通の「家族」というものとは無縁の場所で、そのまま育った。
盗賊たちの多くは、戦争が終わって失業した者たちだった。
強盗もすれば、ときには権力者から暗殺も請け負う。
けっして慈善でフミを拾ったわけではない。
欲しかったのは、都合よく使える駒だった。
「門番は?」
アジトに戻ったフミに、男が聞いた。
「表に二人、裏に一人。陽が落ちる頃に交代する」
返事を聞くと、男は満足げに袋を突き出す。
「次は鶏を盗ってこい」
幼い子どもは大人に警戒されにくく、フミは便利な道具として使われた。
紐を使った投石、泥を顔に塗って草木に紛れる術、毒草の見分け方――さらに、アジトが襲われたときに貴重品を持って抜け道から逃げる役目まで。
さまざまな技を叩き込まれたが、生き延びるために耐え抜いた。
盗賊団には掟があった。
あるとき、逃亡した男が連れ戻された。
翌朝、その男の寝床は空になっていた。
情報を持った者が逃げる――それは、組織にとって許されないことだった。
◇
「明日の夜、こいつを殺せ」
初めて人を殺す任務を命じられた。
標的の住所と顔が書かれた紙の上に、短刀が置かれる。
フミはそれを黙って受け取った。
そして、そのままアジトを抜けた。
「なんでお前らのために……」
暗い森をひたすら走った。
町に逃げ込むと、人気のない場所に座り込み、ようやく一息ついた。
使い慣れた投石のための紐を握る。
「やってらんねーよ」
幼い声で吐き捨てた。
頭上には星が瞬いていた。
◇
フミはまだ幼く、一人で生きる術を持っていなかった。
田舎では畑の作物や鶏を盗み、都市ではスリや窃盗を繰り返した。
ある街の露店の前で、ひとりの子どもがふらついた。
「うわっとっと……!」
その拍子に、積まれていた果物の籠が派手にひっくり返る。
……フミだった。
頬も指もクルミの皮の汁で赤黒く染まっている。
「何してんだ、おい!」
店主が怒鳴りながら、散らばった果物を拾い始めた。
「ごめんよ」
フミも拾うのを手伝うふりをしながら、並べてあった塩の袋を袖口に入れる。
何食わぬ顔でその場を立ち去り、二つ角を過ぎるまでは、後ろを振り返らない。
笑みがこぼれたのは、誰も追ってこないと確かめてからだった。
村や街の者に自分を知られないように。
追手に見つからないように……。
そんな日々が、皮肉にも彼の能力を磨いていった。
ある日、彼が忍んでいた街が黒い光に包まれ、無数の異形が姿を現した。
悲鳴が上がる中――フミは店主が逃げ出した商店に忍び込み、保存肉、塩、銀貨など、袋に入れられるだけ詰め込んだ。
「生きたい奴は自分で逃げるんだ。俺だってそうしてきた……」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
町の守衛が異形を追い払った時、彼は既に街を離れていた。
顔に泥を塗り、蔓を身にまとって森の茂みに潜む。
追手の気配がないことを確かめてしばらくすると、少し離れた場所に旅人たちが姿を現した。
弓を持った男、子ども、華奢な女。
「金目の物も無さそうだな……」
それでも、フミの意識は狩人へ向いた。
「あいつは……なんだか、まずそうだ……。
見てないのに見ている。そんな感じ……」
その時、背後に気配がした。
「見ぃつけた~」
ヒュッ――。
すんでのところでフミは前に転がると、空気を裂いた刃が背中をかすめた。
「くそっ……気を取られた!」
地面を蹴って前へ走り、肩越しに背後を確かめる。
そこにいたのは三人の男。
刃物を手にした、盗賊の頭と、その側近たちだった。
ールミナ・パルス本編 一章 追われる少年と深い森 に続きますー




