ユウ 『拳闘士』
天井から地鳴りのような歓声が響いていた。
闘技場の地下にある控えの部屋には、こびりついた人の血と汗、猛獣の糞と尿の臭いが充満している。
まるで奈落の底のような、人が居るべきでない空間だ。
松明が薄く照らす石畳に、少年は目を落としていた。
引き締まった体躯をしているが、まだ20歳にも満たないであろう。
「ユウ、落ち着け。呼吸が浅くなっているぞ 」
少年に武具を付けている初老の男性が語りかけた。
その武器は、拳から肘までを覆う鉄の手甲だった。
「セニオル 師匠、落ち着いてますよ」
呟くように少年――ユウは言った。
「師匠には、小さい頃から鍛えてもらったね」
「ばかもん、感傷に浸るのは、生きて戻ってからにしろ 」
師匠の叱咤が飛ぶ。
ユウの様子には、どこか現実感が欠けていた。
(思い返せば…… )
まだ身体も小さい頃から。
走りこみや打撃の訓練のほか、組打ちなど何でもやった。
セニオルが持つ穂先を布で丸めた槍の棒や、刀身を布でくるんだ木剣。
その攻撃を回避する訓練も。
それもこれも、体格で劣る相手との戦いで、生き残る為だった。
「解放奴隷となったお前が、また血なまぐさいアリーナに戻っているとはな」
「師匠、俺にはこれしか生きていく術が無いんです」
「まあ…… 分からんでもないがな」
セニオル自身が解放奴隷となってから、拳奴の指導者となった。
奴隷から解放されて「自由民」になっても元奴隷に対する社会の風当たりは強く、
名のある解放格闘士が試合に出るとなれば、一晩で多額の賞金が支払われるのが現実であった。
「今日の相手は短刀使い……やっかいな相手だぞ」
短刀は想像するより厄介だ。
至近距離で刺突を繰り返されたら、距離を取って細かく切りつけられたら。
決して楽な相手ではなかった。
「俺は何回、師匠に木剣で叩き伏せられたと思います?」
ユウは少し笑った。
その時。
「次の試合、ユウ!準備をしろ!」
進行役から声がかかった。
◇
ユウは歩き出した。薄暗がりの石畳を抜けて、立ち止まる。
滑車とロープのきしむ音。人力の仕掛けで闘技場まで床が持ち上げられる。
陽光がまぶしい。
(ああ、あなたは、いつも笑っていた……)
ユウの脳裏に、生き別れた母が浮かんだ。
けたたましい観衆の声が響く。
ユウはアリーナの土を踏み中央に向かう。
対面からは、短刀を持った剣闘士が向かってきた。
鉄の鱗の付いた肩当て。顔には格子状の面を付けている。
「おまえか、今日の命知らずは? 後悔すんぞ、僕ちゃん?」
格子の間から声が聞こえる。
「ああ……そう……」
ユウの双眸は、やはりどこか虚ろなままだった。
「始め!」
声が響いた。けたたましい歓声が一斉に響く。
短刀使いは半身に構えて、奥の手で短刀を握った。
しきりに前に出した手を動かして牽制しては、時折短刀の刺突を繰り出す。
ユウは足さばきで僅かに届かない距離に避ける。
静かな攻防が何度か繰り返され、アリーナにはブーイングが響く。
「もっとやりあえ!」
観客は、激しく血を流すショーが見たいのだ。
短刀使いは、これまでよりが深く踏み込んだ。
刃先がユウの肩を掠り、血が滴る。
次は下段。鼠径部の急所を狙って刃先が走る…… !
ユウは足さばきで僅かに避けた!
「どうした僕ちゃん....。もっと来いよ。だいたい、間合いは分かった」
短刀使いが言う。
「ああ…….」
命の危地を前にしたユウが呟く。
(あなたは……いつも……そこに……いた)
そこに「いた」のは母では無く、光を纏った何かであった。
ふいにユウの気配が変わり、覚めたように彼の脳は研ぎ澄まされた。
短刀使いの動きがやけに遅く見える。
短刀使いは牽制を織り交ぜて、ユウの腹部に刺突を放った。
短刀使いの重心、足運び……動きに合わせるかのように、
自然に、ユウの身体は、斜めに半歩踏み込む。
短刀が空を切って、突いた腕を引き戻す間も無く、ユウの拳は短刀使いの頭部を捉えていた。
兜の格子がひしゃげ、短刀使いはその場に膝から崩れ落ちる。
ユウは背を向けた。
一瞬の静寂が訪れた後、コロセウムは割れんばかりの声援に包まれた。
◇
その晩。ユウはセニオルと話していた。
「そうか、王都に行くんだな」
「はい。どうも王様が闘技者や人材を集めているようで……。まあ、俺には関係がありませんが」
「お前の母親も見つかるといいな」
「ええ。でも、離れてから10年以上経っていますから。
なにか手がかりがあればいいですが 」
ユウは少しだけ笑った。
「元気でやっていくんだぞ」
「先生も……。お元気で」
◇
次の朝。
王都に向かう隊商と同行して、王都に出発した。
(護衛の中には弓使いと……。華奢な女性。片手で握っているのは杖にしては太い。扱えるのだろうか?)
しかし、その姿は妙に堂に入っていた。
御者が鞭を鳴らし、荷馬車がゆっくりと動き出した。
ユウはふと、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
王都へ向かう街道の先で、空がかすかに黒く光った。
それが何を意味するのか、この時のユウはまだ知らない。
ルミナ・パルス本編 3章 第1話 に続ます!
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