26話 日常
作業のために机へ向かったものの、ペンの進みは悪い。
どうしても先ほどの、旦那様と一緒に過ごせた時間を思い出してしまって集中ができない。
(自分がこんなことになるなんて)
想像したことすらなかった。
結婚前は恋愛に憧れたこともあったけど、貴族である自分は恋愛なんてできないだろうと思っていたから、いつからか考えないようにしていた。
結婚だって、あの両親の元ではちゃんと結婚ができるとも思っていなかった。たとえ恋愛をして結婚を望もうものなら何をされるかわかったものではない。
きっと、両親の望むような結婚をするのだろうと諦めていた。
過去に戻る前はずっと孤独で愛を知らないままだったけど、今は違う。
人を好きになる感覚がこんなにも複雑で幸せで、苦しくても無くなってほしくないと思うものだとは思わなかった。
今までは小説の中でしか知らない感情だったけれど、想像以上の大きな感情に戸惑ってしまうのも事実だ。旦那様と話せるだけでも嬉しいはずなのに、もっと一緒の時間を過ごしたいと考えてしまう。彼の仕事の邪魔をしたいわけではないのにもっと、と思ってしまうのはどうすればいいのか。
(ダメよ、集中しないと)
そう考えても、どうしても思い出してしまう。
旦那様が私を会話をしてくれるだけで嬉しいというのに、これからはその時間がもっと増える。それがどうしようもなく嬉しくて、頬が緩んでしまう。
しかも、また贈り物をくださるという。彼がどんなものを選ぶのかが気になってしまうし、どういう気持ちでいてくれているのかが気になってしまう。
旦那様から見て、私はどういう存在に変わっているのだろう。
過去に戻る前と比べたら、随分と違う。それは自分でもわかるし、自分亜頑張って動いた結果だろう。でも、旦那様の気持ちと私の気持ちは別物だと思う。
なんてことだ。恋愛にならなくてもいいと考えていたのに、旦那様が私と同じ気持ちになって欲しいと願ってしまう。
(贅沢な悩みね)
こうやって悩めるのは、贅沢なことなのかもしれない。
過去は悩むことすらなかったのだから。
(……よし、切り替えましょ)
体を伸ばし、改めてペンを手にもつ。一文字でもいいから、書き進めることが大事だ。
そう思い、数文字だけ進めた瞬間に部屋のドアがノックされた。
「奥様、入ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんよ、どうぞ」
部屋に入ってきたリリーはどこかそわそわとした様子だった。きっと、先ほどのことを聞きたいのだろう。
私もペンを持ったばかりだったが、今日は集中できそうにない。たまにはこういう日があってもいいだろうと自分に言い聞かせ、リリーをソファに座るように言った。
「すみません、作業中に」
「気にしないで。今日はもうやめようと思っていたから」
嘘ではない。書き始めたところではあったが、この調子ではすぐに思い出して筆なんて進まないだろう。
私の言葉に安心をしたのか、リリーは前のめりになる勢いで「旦那様といったい何をお話していたのですか?!」と興奮気味に話し始めた。
いつか聞かれるだろうと思っていたが、こんなにすぐだとは思っていなかったので、思い出してしまってまた顔が熱くなる。話してしまいたいけど私だけの秘密にしておきたいような、不思議な気持ちだ。
「そんな大した話はしていないのだけど、今度贈り物をくださるみたいで」
「あの旦那様が?! それはとても楽しみですね!」
「ええ。旦那様はセンスもいいから楽しみだわ」
「なんだか、旦那様も本当に変わりましたね」
リリーが言うように、確かに旦那様も変わった。初めて会った時なんて挨拶もなく、会話も最低限だけだったというのに、今となっては会話も増えて関係も昔ほど悪くないと思う。
何より、旦那様が私の小説家という仕事を認めてくれたのが嬉しい。女でも仕事をしてもいいこと、ましてや小説家という職業を認めてくれた。おかげで家を出ずに済んだし、こそこそとする必要も無くなった。
夫婦としてはまだまだかもしれないけれど、夫婦としての時間が増えたのはいいことだと思う。
とはいえ、自分の恋愛感情を表に出さないでいるのも辛い。彼が私のことを好きという感情で見てくれないのはわかっている。それでも、いつかはこの気持ちも受け入れてもらいたいとも思ってしまう。でも、これは自分のわがままだろう。自分の気持ちを受け止めてもらうことに強制をしたいわけではないというのに、知ってもらいたいというのはあまりにも自分勝手だ。
そのことに暗い気持ちが出てきてしまうが、このことをリリーに相談をするのもなんだか申し訳ない。リリーは私と旦那様との恋愛を期待しているのだろう。そのことは話していてわかるからこそ、彼女には相談ができない。前世で旦那様は私の死の間際ですら顔を出さなかった人だ。そんな人が、私のことを好きになってくれるわけがない。
恋愛相談をするだけ、彼女をがっかりさせてしまう結果になる。
おそらく私が旦那様のことを恋愛的な意味で気になっていることは気づいているかもしれない。でも、あえて触れてこないのは彼女の優しさだろう。
(……ありがたいわ)
申し訳ない気持ちもあるけれど、必要以上に踏み込んでこないことはありがたい。
そのことに感謝しながら、この日はリリーとの談笑で盛り上がった。
翌朝。
旦那様が部屋まで迎えにきてくれたので、一緒に食堂へと向かった。
「昨日はよく眠れたか?」
「ええと、実はあまり眠れませんでした」
リリーとの話が盛り上がってしまい、時間はあっという間に過ぎていた。流石に夜通し話すわけにはいかないので、話を切り上げて眠る準備をした。
でも、ベッドに入っても目は冴えていて、眠りについたのは真夜中だった。話をし過ぎて興奮をしていたのもあるが、一人になると旦那様のことを思い出してしまって目が覚めてしまった。考えれば考えるほど頭には旦那様の姿が浮かんでしまい、考えないように意識しても無意味だった。
「確かに、少し顔色が悪いな」
「だ、旦那様?」
顔をじっと見られ、思わず緊張してしまう。
そんなにまじまじと見られるのはこちらの心臓が持たない。旦那様は自分のお顔がとても整っていることを自覚した方がいい。
「あまり無理はしないようにな」
「ありがとうございます。旦那様も無理してはダメですからね」
「ああ。善処する」
そうは言っているが、きっとまた仕事を詰め込むのだろう。
私にも何か手伝いができたらいいのに、なんて思う。一応経理の勉強は続けているが、小説の出版が決まってからはそちらにまで頭を回すことができない。続編を書くことも決まっているし、手伝うのはしばらく難しいだろう。
そもそも、彼が私に仕事を任せてくれるかはわからない。小説の仕事が落ち着いた時にでも申し出てみるだけしてみよう。
その後も旦那様とは雑談をしながら食堂へと歩き、共に朝ごはんを食べた。
好きなこともできて、旦那様と一緒に過ごすことができる。このまま、穏やかな日が続けばいいと思った。
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