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Simulated Reality : Breakers1【black版・完結】  作者: 高瀬 悠
【第一章 第三部(下)】 オリロアンの聖戦女(ヴァルキリー)【後編】
331/333

運命の9月13日……【17】

 2026/05/20 08:10


 

 ──気が付いて。

 俺はそっと目を開いていく。

 視界に最初に飛び込んできた風景は、見覚えのない天井だった。

 ぼんやりとした思考でそれをしばらく見つめる。


 ここは夢か? それとも現実か? 


 まだそんな夢心地な思考のままボーっとする。

 たしか最後に記憶していたのはよく分からない研究所の部屋だった気がする。

 撮影から解放されたのか、俺自らクトゥルクの魔法で瞬間移動したのかは分からないが。

 その後微かな記憶の中で俺は、どこかの地下ライブの音楽が壁越しに漏れ聞こえていた誰かの控室だったような。

 ひらひら可愛いライブ衣装や化粧台があったことから、恐らく地下アイドル歌手の控室のような場所。

 そこから急に意識を失ってからの記憶が無い。


 ……あれ? ちょっと待て。じゃぁここはどこだ?


 誰かが使用していたベッドに寝かされているであろう現在。

 次第に覚めてきた思考の中で、冷静に部屋内を目だけで見回す。


 え……?


 見回してみて気付く、ここが女性が使っていたであろう一室だということ。

 ゲストを迎える感じではなく、プライベートで使用している部屋。

 そう広いわけではなく、狭いわけでもないワンルーム。

 家具はシンプルに机と椅子に壁掛けテレビ、それに今俺が使っているベッドと、本棚、そして締め切られた押入れクローゼット。

 部屋のあちこちに配置された本棚には、何かのアニメキャラのぬいぐるみがいっぱい敷き詰められている。

 壁にはトップアイドルASAKAの大きなポスターが貼られており、特に杉下ゆいなの推しグッズが多いように思う。

 もしかしたら俺は杉下ゆいな推しファンの女性に助けられたのかもしれない。

 今はこの部屋にその助けてくれた住人が不在のようだが、部屋のドアの向こうからは誰かが居るような物音が聞こえてくる。

 物音や足音からして恐らく一人暮らし。

 

 ……。


 大変ご迷惑をおかけして申し訳ない気持ちで、俺はゆっくりと寝ていたベッドから体を起こした。

 起きてみて改めてベッドを見回してみれば。

 住民女性が使っていたであろう可愛い仕様のベッドに、またさらに溢れるたくさんのぬいぐるみ、それに俺に掛けてくれたこの毛布まで。

 どうやら俺のために私用物を貸してくれていたようだ。

 俺は掛けられていた毛布を畳んで脇に置いて、ベッドから足を下ろした。


 ……。


 そして気付く。

 サイズの合わないぶかぶかの男性もののパジャマを着ていることに。

 いや、ちょっと待ってくれ。

 誰がいついったいどうやって俺を着替えさせたんだ?

 そんな摩訶不思議に目くるめく疑問が俺の頭の中でぐるぐる回る。

 枕元には俺がその時着ていたであろう手術着が丁寧に畳まれており、今までの出来事を現実味を帯びて伝えてくる。


 ……。


 いや、待て。

 ここの住民って、もしかして女性ではなくて男性なのか?

 そんな疑問が俺の脳裏を過ぎる。

 そう考えないと全てのことに辻褄が合わない。

 たしかに押しファンの()()でなければ、一人で俺をここまで運べないだろうしパジャマにしても着替えさせてくれるわけがない。

 俺の目が自然と部屋のドアへと向く。

 閉め切られたドアの向こうでは相変わらず()()()の物音や足音が聞こえていて、さらには女性っぽい声の鼻歌まで。

 しかもその鼻歌が、俺の知っている杉下ゆいなのソロ曲だ。


 間違い、ない……。


 俺はごくりと生唾を飲む。

 助けてくれた住人は、押しファンの男性であるということに。

 その後カチャカチャとティーカップの乾いた音色が聞こえてきたかと思うと、部屋のドア前まで足音が近づいてきた。

 どうやらこちらに何かを運んできているようだ。

 部屋のドア──そのドアノブが静かに下がっていき。

 ドアの向こうから2人分のティーカップを載せた盆を手にして現れたのは、ガチのプライベート姿の杉下ゆいな本人だった。


 ──。


 何から何まで訳が分からない。

 言葉なく。

 俺は脳の処理が追いつかなくて愕然と間抜けに口を開けて、失礼ながらも彼女に人差し指を向ける。

 その人差し指までもが、俺の心境を現すかのように微動に震えている。

 彼女が俺を見てニコリと笑ってきた。


「やっと目が覚めたのかお?」


 ……いや、なんで?


 やっと絞り出した声。

 何をどう質問していいか分からないし、なんで彼女のガチプライベートの部屋に居るのかもまるで意味が分からない。

 彼女が俺の居るベッド傍──その向かい合わせの床へと座り込んでくる。

 上から彼女を見下ろすのは失礼だと思い、俺は即座に床へと腰を下ろす。

 対等に彼女と向き合う形で。

 彼女がまるで俺を昔から知る幼馴染みでも相手にするかのように、普通な態度でティーカップを俺に手渡してくる。

 それを俺は混乱した思考と不思議な心地で受け取って。

 彼女がぽつりと告げてくる。


「お前のこと、私知ってるお。お前の名前はKだお。向こうの世界で私とは一度会ってるお」


 ……お?


 俺は目を瞬かせて聞き返す。

 なんか話し方がテレビと違う気がするのは気のせいか?


「私の話し方が気になるかお? この話し方はゲームチャットの時の話し方お。

 お前、向こうの世界の住民なんだお? だから向こうの世界の話し方に合わせて話しかけているお」


 へ?


 俺は目を点にして首を傾ける。

 彼女──杉下ゆいなが、ティーカップに入った紅茶をこくりと飲んでから話を続けてくる。


「覚えていないのかお? 私のコードネームは『F』ちゃんだお」


 コードネーム……F?


 俺の脳裏に蘇る記憶。

 あれはたしか2回目のログインで、エルフの村で助けてくれたゼルギアの馬車で瞬間移動して。

 そしてゼルギアに紹介されたギルドの酒場で突如として現れた──


【ただいまー! みんな元気してたぁー? Fちゃんは今日も元気だお!】


【Fという名がコードネームなら間違いなくお前と同じ世界の人間だ】


【だが、アバターが人間じゃない】


【お前、誰お?】


【彼の名はK。エルフの村からの難民よ。今日このギルドに登録したばかりなの】


【それ、コードネームか? それとも本名か?】


【本名と言っとけ】


【え? なんで?】


【嫌な予感がする】


【がっかりだお。コード・ネームKが現れたって9が言うからせっかく仕事抜けてログインしたのにガセネタだったお】


 ──!


 俺の中で最大瞬間風速の暴風が吹き荒れていく。

 心境を現すかのように俺が持つティーカップが小刻みに揺れる。

 コードネームF。

 見た目一歳児ほどの魔法使いの小人族で、くるくるピンクのくせっ毛にトンガリ帽子、円らなどんぐり目で愛くるしい笑顔、手持ちの魔法の杖のような物で俺の頭を殴ってきていた奴だ。


 まさか……嘘だろ。


 杉下ゆいなが紅茶を飲みつつ、俺の質問に真顔でこくこく頷く。


「そうそう。マジだよ、これマジ。私がコードネームFの実体」


 なんで……? いったい──


「まぁまずは紅茶でも飲んで落ち着くお」


 ……。


 俺は一旦言われた通りに手持ちの紅茶を一口飲んで。

 飲んでも全然気持ちが落ち着かなかった。

 杉下ゆいなが俺に言ってくる。


「事情を説明するなら、そもそもあの楽屋自体が私にとって向こうの世界へログインすることが出来る環境だったわけ。

 今はテレビ出演とか大型ライブ会場を超満員にするほどのトップアイドルになることが出来たけど、でもデビューして売れる前は、みんなであの地下の少ない観客相手にライブしてた。

 あのみんなで力合わせて歌って踊って楽しかった場所が好きで、たまの休み合間に髪型変えてアイドル名も偽って、まだ売れていない妹分アイドルのグループに入れてもらって裏方としてライブ参加していたんだお。

 だからあの場所の楽屋は私にとって初心を思い出させてくれるの大切な場所。

 今は気を遣われて個室ルームとしてあの楽屋を使わせてもらっているけど、ある日突然、私の頭の中に声が聞こえてきて、それで時々向こうの世界を行き来してた。

 そして昨日の夜、ライブが終わって楽屋に帰ってきたら、そこにあなたが倒れていたから……」


 ……倒れていたから? 一人で俺をここまで?


「ううん。違うお。ここに運んできてくれたのは私のマネージャーさん。

 相模さんっていう30代くらいの腰の低い優しいおっさんなんだけど、その人が一人でここまで運んできてくれたんだお。相模さんが自宅から持ってきた個人のパジャマに着替えさせて、今は最寄りの警察署で事情を説明しに行ってるお」


 警察署……?


「身分証明的なモノが何もなかったし、該当するような行方不明届もまだ出ていないって。

 一旦目を覚ますまではここで保護してもらっていて、その間に心当たりのあるところに連絡を取るって──」


 心当たり?


「ウソホンの番組のスポンサーさん。その企業の人の投稿者Aって人がコードネームKを番組で捜していたから」


 Nooooooooッ!


 俺は両手を戦慄かせて絶望に叫んだ。

 せっかく脱出できたというのに、これではまた振り出しに戻ることになる。

 そう思った俺はティーカップを杉下ゆいなに返し、早々とその場を立ち上がる。


「いったいどうしたんだお? 向こうの世界で何かあったんだお?」


 違うんだよ、そうじゃない。えっと……何からどう説明していいか。


 俺は焦りを見せながらその場をオロオロと動き回る。

 そんな俺を心配して、杉下ゆいなもその場を立ち上がり問いかけてくる。


「もしかしてA氏に連絡したら、何かヤバかったんだお?」


 ヤバイってもんじゃないって! 俺、またあの部屋の中に入れられる!


「部屋ってなんの部屋なんだお? 異世界人を閉じ込める部屋か何かかお?」


 そういう次元の話じゃないんだよ!


 ハッと思い出して、俺は杉下ゆいなに訊ねる。


 今、何月何日何曜日?


「地球が何週したかの話かお?」


 そうじゃなくて、俺真面目に訊いているんだけど!


 つい反射的に杉下ゆいなの腕に触れようとして、寸前でアイドルに触れることの罪悪感を覚え、ノーカンを示すかの如く仕草を切り替えて両腕を広げてお手上げする。

 きょとんとした顔で杉下ゆいなが小首を傾げる。


「今日は9月13日だお。それがどうかしたのかお?」


 9月13日!?


 悲鳴に近い声で叫んで、俺は両手で頭を抱えて絶望する。

 すでに今日が運命の日。

 4日分の日付はどこへ吹っ飛んだんだろう。

 本心を言えばこの部屋からは出たく無かったけど、捕まることを考えると、こんなところで悠長にしゃべっているわけにはいかない。

 そんな時──。

 何のタイミングか、玄関からドアのインターフォンの音が鳴り響く。

 次いでドアノブをガチャる音とドアを叩く音が聞こえてくる。

 俺は杉下ゆいなに急ぎ半ばに口早に礼を言う。


 助けてくれて本当にありがとうございました。お世話になりました。では俺はこれで。


「ちょっと待つんだお。どこへ行くお?」


 ……。


 無言で俺は颯爽と部屋のドアノブを掴んで開き、杉下ゆいなを置き去りにして部屋を出て行く。

 部屋を出た向こうはリビングに繋がっていて、有名人として納得出来る綺麗でお洒落な家具が置かれていた。

 そのリビングを勝手知らずで進み抜けて、バルコニーへと抜ける引き違い窓へと向かうと、その窓に手をかける。

 勝手に内鍵を解除し、窓をスライドさせる。

 これまたお洒落なルーフバルコニー。

 そのバルコニーの端へと俺は歩を進め、そして脱出しようとバルコニーから身を乗り出した。


 ……。


 真下を眺めて絶句する。

 そんな俺の背後から杉下ゆいながやってきて、ぽつりと言葉を投げかけてきた。


「そこは危ないお。ここ、高層マンションの最上階だお」


 ……。


 脱出不可。

 こんなところから飛び降りようものなら、それこそ違う意味で運命の日を迎えてしまう。

 背後からは俺を急かすようにインターフォンの音とドアを叩く音。

 切迫した状況から追い詰められた俺の思考が、ある危険な思考へと答えを導き出す。


 いや、待てよ。もし、ここが本当にシミュレーターの世界だとしたら。


 そう考えた俺は咄嗟にバルコニーの淵に手を置いて──

 慌てて杉下ゆいなが俺の服を掴んでその場に引き留めてくる。


「ちょ! 何考えているんだお! ここから飛び降りるとか正気かお!?」


 これしか他に脱出する方法がないんだよ!


 俺は飛び降りる体勢を崩してその場に留まり、振り向いて杉下ゆいなにそう言う。

 すると杉下ゆいなが俺に必死な顔して言ってくる。


「お前、魔法使えないのかお? 目的座標(エーテル・ポイント)の魔法! それがあれば向こうの世界に帰れるかもしれないお!」


 …… 目的座標(エーテル・ポイント)の魔法?


 聞き馴染みのない魔法の種類。

 向こうの世界で俺はそれを使ったことがない。

 俺の脳裏を過ぎる、ギルドでゼルギアが言っていた会話。


【F、お前はどうする?】


【また討伐お? 途中で抜けていいなら参加するお。目的座標(エーテル・ポイント)を言ってくれたら直接そこ行くお】


【相変わらず便利な魔法持ってんな、Fは。どうせならみんなまとめてエーテル・ポイントまで飛ばしてくれりゃぁ楽なんだが】


 ──そうか、 目的座標(エーテル・ポイント)だ!


 閃いて、俺は思わず杉下ゆいなの腕を興奮気味に掴んだ。

 杉下ゆいなが驚き目をぱちくりさせて俺を見てくる。

 この切羽詰まった状態。

 それを打破できる手段は唯一それだけだ。

 俺は杉下ゆいなに懇願する気持ちで問いかけた。


 教えてくれ。 目的座標(エーテル・ポイント)の魔法はどう使えばいい? やり方が分からないんだ。


「お前、今まで向こうの世界に居てその魔法も知らなかったのかお?」


 うん。だから今ここで知りたいんだ。教えてくれ。


「行きたい座標はどこお?」


 どこでもいい。とにかくどこだっていいんだ。


「じゃぁまずはあの画面を目の前に出すお」


 あの画面?


「初期に立ち上げてコマンドを選んで操作する画面お。ログイン・ログアウトのボタンが出ていた画面だお。それを──」


 ……ちょっと待って。


 俺は何かを察して意気消沈気味に杉下ゆいなから手を離した。

 そのまま人差し指を額に当てて唸り考え込む。

 脳裏でJ達が言っていた会話が鋭く突き刺さってくる。


【ログアウトのやり方? そんなん、みんな一緒ちゃうんか?】


【フツーだよね?】


【うん。ぴっと押す感じで】


【いや、もっとこう、具体的に】


【そんなん視界の片隅に浮かんだ『ログアウト』って文字をぴっと押しとるだけやろ。違うんか?】


 ……。


 俺はふるふると首を横に振って呟く。

 

 無理。その時点で詰んでる。そういう画面とか一切見たことないから、俺。


「じゃぁ、今までどうやってこの世界を行き来してたんだお? 別の方法で移動してたのかお?」


 ……。


 いまだにドアの向こうではインターフォンが鳴り、

 すると何かを察してか、杉下ゆいなが心配そうな顔で俺を見つめてきて、そっと腕に手を当ててくる。

 あの杉下ゆいなに触れられたことで、俺の心臓がドキっと飛び跳ねた。

 みるみる顔が紅潮していくのを自覚する。

 杉下ゆいなが俺に言う。


「……お前、アイツ等から逃げたいんだお?」


 無言で。

 俺は彼女の言葉に頷きを返す。


「私が先にドアを開けてアイツ等の相手をするから、お前はその隙に逃げるお」

 

 ──え?


「分かったかお?」


 ……。


 インターフォンが鳴り響く中。

 俺は素直に頷きを返し、彼女の言葉に従った。





 ※





 インターフォンが鳴る中で、杉下ゆいなが静かに玄関のドアを開ける。


「はい、どちら様ですか?」


 ドアの向こうから、例の黒服男二人組が顔を覗かせる。


「ウソホンの番組のスポンサーをしているAIMG研究所の者です」


「そちらにコードネームKを保護していると聞いて──」


 言葉半ばで杉下ゆいなが力いっぱいドアを押し開いて彼らをその場から退けて道を確保し、背後に居た俺に向けて合図する。


「今だよ、K! 逃げて!」


 それを合図に。

 俺は玄関から飛び出して通路を走る。

 気付いて黒服の二人組が俺の後を追いかけてくる。

 事前に杉下ゆいなから教えてもらっていた昇降エレベーター。

 それを目指して全力で通路を逃げ続けた。

 途中で一人の黒服男と対峙したが、突発的に俺が飛び出して油断していたこともあってか、隙を見て、彼の手を掻い潜って逃げに成功する。

 平日昼間。

 通路に人けが無かったことが幸いだった。

 通路の角を曲がり、その先に見えてくる昇降エレベーター。

 何のタイミングか分からないが、運よくその昇降エレベーターが迎え入れるように自動でドアを開いてくれる。

 走りの速度を落とさず、俺は突っ切るようにして昇降エレベーターの中へ飛び込み。


「早く! 早く閉まってくれ!」


 目前へと追いかけてくる黒服の男たちを見ながら、すぐさま何も見らずに適当な階のボタンを押した後にドアの開閉ボタンと思われるボタンを激しく連打する。

 ゆっくりと閉まっていくドア。

 捕まる寸前の、まさにギリギリのところでドアが完全に閉まり。

 俺はようやく脱出に成功した。


 ……。


 安堵の溜め息を落とす。

 そして思い出す、自分はいったい何階のボタンを押したのだろうと。

 感覚的に、昇降エレベーターはどんどん上へと昇っていっているようだ。


 上か……。


 そんな時に俺の脳裏に過ぎる、杉下ゆいなの言葉。


【そこは危ないお。ここ、高層マンションの()()()だお】


 いや、待って。全力で待って。


 上に行くのは明らかにおかしい。

 この昇降エレベーター、何かがおかしいぞ。

 ようやく押しボタンへと目を向けた俺は、そこで衝撃なものを目にする。

 階を押したはずのボタンがどこにもなく、消えていたことを。

 それに代わるように、ある言葉がそこに貼りつけられていた。


《ゲームの世界へ行かないか?》


 ……。


 目にして俺はゾクリと背中に悪寒が走った。

 恐る恐るその言葉の末尾へと辿って視線を落としていけば、俺が押したはずのボタンは「開閉」ボタンではなく、「Yes・No」の二択のボタンだった。

 その「Yes」のボタンを俺は押してしまったらしく、そのボタンだけが点滅している。


 ……嘘、だろ……。


 絶望にも似た心境で絞り出す言葉。

 俺は恐れるようにそのボタンから身を退いていった。

 その瞬間!

 ガクンとエレベーターが衝撃に揺れ動いて緊急停止する。

 揺れる床。

 俺はその場で何とかバランスを保とうと壁に手を当て、そこを支えに立ち竦む。

 いったい何のホラー現象だというのだろう。

 感覚的に、まるでたった一本のワイヤーでこの箱型エレベーターが繋ぎ止められているかのようだ。


 ……。


 恐ろしいなんて、そんな簡単な言葉で言い表せる状態じゃない。

 今日が9月13日。

 俺にとって運命の分かれ道となる日だ。

 生か死か──。


 ゴクリ、と生唾を飲み込んだその瞬間が合図であったかのように。

 絶妙なバランスで止まっていたエレベーターは、たった一本の命綱のワイヤーを断ち切って。

 重力に従い、俺は物凄い勢いで階下へと落下していった。

 2026/05/10 12:44



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