釣り銭がありません
マルデ市場街での朝食を終え、フィンシスはユウリと共に宿屋への道を歩いていた。
「あんた、次の目的地は決まってるのかい?」
「全く。近場の教会に行こうとは思っているけど」
「あー、教会か、確かこの街にはなかったはずだぜ。近場の街にあったかな……」
「物資の補給もしたい」
「旅支度もするなら今日中に出発するのは厳しいな。宿屋の旦那に言っとかねえと」
リヴィークの周囲に教会があるという話は聞いたことがないが、ギルドであれば何かしら情報を得られるだろう、その後は職人街で薬や旅道具を買い足して、また市場街に戻って食料を……
などとフィンシスが思案している間に、宿屋の寂れた看板が遠目に見えてきた。
集合宿場 《鶏の脚置き亭》
宿場街の隅にひっそりと居を構える、飾り気のない古宿だ。主要な大通りからは少し歩くものの、値段の割に部屋も小綺麗で虫除けも炊いてある。宿屋の主人とも顔馴染みで、フィンシスがこの街を訪れた際は必ずといっていいほどこの宿を使っていた。
わずかにガタついた扉を開けると、カウンターの裏手で、宿屋の旦那が仏頂面で帳面をつけていた。一見不愛想に見えるが、中身もしっかり不愛想である。とはいえ、埃一つない宿内や朝に欠かさず記帳しているらしい出納帳を見れば、かの御仁の気質はうかがい知れようものだが。
「旦那ァ、もう一泊頼むぜ」
「一泊一人銀貨5枚だ」
そう言いながら、カウンターの上、木製のカルトンをトントンと指さす。昨日と、それ以前と、一言一句変わらない決まり文句を告げて、彼は再び帳面に視線を戻した。背負った荷物から財布を取り出しながら、隣にいるユウリに声をかける。見るからに若く旅慣れていない少年。朝食代のこともあって、フィンシスは彼の懐事情が少しばかり心配になっていた。
「ユウリ、あんた金は持ってるのか?今日の分は俺が持とうか」
「多分、大丈夫のはず……あった」
雑多な鞄の中からユウリが取り出した麻袋の中には、金貨があふれんほどに詰まっていた。銅でも銀でもない、金貨である。フィンシスは自分の目を疑い、次いで頭を抱えそうになった。朝食の時も思ったことだが、本当に素性も得体もしれない少年だ。宿屋の主人も記帳の手を止めて明後日の方向に顔を向けていた。まったくご配慮痛み入る。
しかし、これだけの額を持っていて不安がるとは不思議なものである。もしや、金銭の扱いにすら慣れていないのだろうか。物々交換で経済が成り立っていることも僻地の村々では珍しくない。かくいうフィンシスも旅に出たばかりのころは苦労したものだ。
「もしかして金の扱いに慣れてないのか?金勘定できないのは恥ずかしい事じゃないさ、ほら、折角なら教えてやろうか?」
「慣れていないだけだ、できないなんて言うな」
そう返したユウリは、ほんの少し自信なさげに通貨の位階計算を諳んじ始めた。
「銀貨100枚で金貨1枚、銀貨1枚が……銅貨100枚、これだけ分かっていれば十分だろう」
「確かにそうだけどよ……」
ユウリの言う通り、硬貨の種類、枚数、両替レートまで把握していれば、最低限の知識としては問題ないだろう。
ただ、彼の財布の中には、銀貨も銅貨も見当たらない。大量の金貨に埋もれているだけ、というのは希望的観測だろうか。金貨で支払うとなると少しばかり面倒なことになるかもしれないと、果たしてユウリは気づいているだろうか?
「宿代が銀貨5枚なら……金貨1枚で払って釣りを——」
「金貨なんて出されちゃ釣りが足りないよ」
案の定、そこまで考えてはいなかったらしい。宿代は銀貨5枚。大抵の旅人、というより、ほぼ全ての旅人は、ぴったり銀貨5枚で支払えるだろう。そもそもの話、日常的な取引で金貨を使うようなことはまずないのだ。釣銭が用意されているはずもない。この都市全体で見ても、金貨が用いられるのは余程大口の取引に限られるだろう。あるいは、流れのキャラバンや傭兵団など、数十人単位の会計であれば使うこともあるだろうが。
ユウリは店主の顔を見つめ、手元の金貨に視線を下ろし、最後にフィンシスの方へ振り向いた。眉尻を下げた上目遣いは、明らかに助けを求めていた。
「昨日の宿代で使い切ってしまった」
「逆になんで5枚は入ってたんだよ」
「師匠からの餞別だ。金貨よりもこちらのほうが役に立つと」
ありがとう、顔も名前も知らない師匠殿。できればもっと小銭を持たせてほしかった。
出せないものは仕方がないので、宿代は2人分まとめてフィンシスが支払った。流石に申し訳なさが芽生えたのか、ユウリは握っていた金貨をそのままフィンシスに手渡してきた。馴染みない金色を眺めて、フィンシスはユウリに問いかけた。
「どう考えても金貨1枚は多いだろう、さすがに貰えねえよ」
「どのみちまた買い出しに行くんだろう?俺の分はそこから出してほしい」
さも名案を思い付いたかのようにユウリは言い放った。確かに理屈は通っている。買い出しを済ませても金貨の半分以上は余るだろう。かといって銀貨で立て替えられるほどフィンシスの懐も潤ってはいないし、両替はなかなかに手間がかかる。このままでは旅支度もままならない。手持ちはあるのに会計できないという珍妙な状況ではあるが、頭の痛い話であった。
こうなれば致し方ない。自分が立て替え続けるわけにもいかないならば、ユウリ自身に小銭を稼がせればいい。フィンシスが同行している間に、この浮世離れした少年に日銭の稼ぎ方を叩き込んでおかねば。そう決意したフィンシスは、ひとまず金貨を預かり、ユウリを冒険者ギルドに案内するのだった。
TIPS02:ヴァアト硬貨
魔界で広く流通する貨幣。「価値」の魔王ヴァアトによって製造され、あらゆる労働、生産物、造物の価値を保証する尺度として用いられる。
知性ある魔族との交渉であれば、大抵の問題はこの硬貨で解決できる。もっとも、釣り銭のない宿屋では話が別である。




