聖典は未だフィンシスの鞄の中
宿に戻った二人は、一息つく間もなく出立に向けて荷造りを始めた。正確には、戻ってきて早々荷物に手を付けたユウリにフィンシスが付き合っているだけ、ではあるのだが。
フィンシスが程々に自身の鞄を片付けていると、見慣れない書物が荷物の中に紛れ込んでいる。手に取ってみると、昨晩ユウリに貸し出された聖典であることに気づいた。
読み終わったら返せと言われていたものの、まだ表紙を開いてすらいない。読む気などさらさらなかったが、ここ数日ユウリやディニスと関わって、エレフィネー教とやらに関心が湧いたのも事実だった。
……少しくらいなら、読んでやってもいいかもしれない。挿絵が多いとか、大きな文字で書かれているとか、読みやすい本の可能性だってあるはずだ。フィンシスは興味本位で適当に頁を捲って──
『女神を中核とする救済術式基盤への接続経路は第一種構成要素を通じた肉体同期にて──』
『──に対して、自然環境、魔獣集積、人為的要因等死者の増加が懸念される地域を不規則に巡回し救済術式の仲介および布教を行う信徒──』
『──一般と比較して存在規模が十倍以上と予測される魂の救済術式適用に関しては、管理者へ申請の後分割──』
約五秒で聖典を閉じた。書かれている内容を読む以前の問題だった。無理だ、文字が細かすぎて頭が痛くなる。そもそも隣にはこの書物を熟読しているであろうユウリがいるのだ。聞けばいいのだ聞けば。全く、要らぬ気まぐれを起こすものではなかった。そうと決まれば話は早い。フィンシスは己の中に燻っている初歩的な疑問を解消すべく、早速ユウリに声をかけた。
「今更なこと聞いていいか?」
「今更?」
「結局巡礼者って何してるんだ?」
「…………本当に今更だな」
ユウリとしても想定の斜め上を行く質問だったのだろう。「絶句」の二文字が顔に書かれているかのようだ。仕方ないだろう、他に考えることが多すぎて、気にする暇もなかったのだ。
「ディニスから話を……ああそうか、女神が見えただので話の腰が折れたのだったな?」
「お前さては最初から聞いてたな?」
「どうだろうな。で、巡礼者についてだったか」
「巡礼者なんて呼び名が着いてはいるが、旅をしていること以外、一般の信徒とそう変わらないはずだ。各地で出会った死者の魂に洗礼呪法を施して、女神に救済してもらう。強いて言うなら歩き回っている分、多少腕が立つぐらいか」
ユウリの回答は、フィンシスが思っていたよりも簡素なものだった。物資をもらえるだの、信徒を守るだの、今までの話を聞く限り、それなりに重要な立場ではないかと思っていたのだが。ユウリは鞄の口を閉じながら、フィンシスの疑問を見透かしたようにこう続けた。
「俺達から見て変わらずとも、他の信徒にとっては尊敬の的、らしいな。俺達が一年に送る死者は、教会務めが一生に送る人数と変わらんらしいぞ?」
一生分を、一年。フィンシスが今日味わった、心をすり減らすような体験が、巡礼者たちにとっては日常なのだろうか。そう考えると、ディニスの疲弊やユウリの割り切りも、無理からぬことなのだろう。
「……大変そうだな」
「だな。ただ、一度の鎮魂で心を病む奴もいれば、万回やってもピンピンしてる化物もいる。数の大小なんて、正直当てにならん」
「お前はどれくらい見送ってきたんだ」
「四百五十五と三十六と一」
「何だそれ」
不思議な数え方に少しばかり困惑したが、これは巡礼者にとって、あるいはユウリにとって意味のある区別なのだろう。墓地街の話を蒸し返すことになるやもしれぬと、フィンシスは何も言わずに流すことにした。
「──で、他に聞きたいことは?」
「あーっと……」
どうして巡礼者になったのか、旧アゼリウス統治圏に行く理由、気になることはそれなりにあったが、どれもユウリ個人に関するものだ。どこまで踏み込んでよいものか。フィンシスはここに来て、ユウリとの距離感を測りかねていた。
「もうないなら──」
そう言いながら、ユウリは壁にかけてある自身のマントを羽織り──
「俺はもう出発するぞ」
息をするかのようにとんでもないことを口にした。
「……一応確認するけどよ、今何時だと思ってるんだ」
「夜中の一時だな」
「で?今からバルアムに出発すると」
「ああ」
「馬鹿なんじゃないかお前」
常識の向こう側を行く発言に、反射的に飛び出る罵倒。測りかねていた距離はものの数秒で霧散した。
「別に今までもこうやってきた。罵倒される謂れはないぞ」
「お前一人ならな!俺はお前みたいに超人じゃねぇの!」
「一緒に来る気だったのか?」
どうやらここで別れる気満々だったようだ。言われてみれば、フィンシスも同行の希望を伝えていなかった気がする。……正直に言って、この少年を一人にするのは色々な意味で不安がすぎる。そもそも金貨の精算がまだ済んでいない。こんな大金を渡されっぱなしでは、さすがのフィンシスでも引き止めざるを得ない。
──という旨をユウリに伝えると、一応納得はしてくれたようだ。渋々といった様子ではあるが。
「付いてきてくれるなら……まぁ、助かるが」
不承不承、という言葉がよく似合う声色で、ユウリは呟いた。全くどの口が言う。初めに世話になったのはこちらだが、自分の非常識っぷりをそろそろ自覚してほしいものだ。
「そこまで言うなら、今日はお前に合わせて休んでやる。出発は朝一だからな」
「そうかい、ありがとよ。」
「……ん」
翌日、大寝坊したユウリを叩き起こすフィンシスの姿があった。やがてそれが日常の風景になるとは、今の二人は知る由もない。
こうして彼らの奇妙な旅路は、騒々しく幕を開けたのだった。
TIPS12:商工都市バルアム
サングリット統治圏西部に位置する大都市。「鉄と妖精の街」と称されるその街では、地下に広がる大鉱床を中心とした採掘区の活気ある様子と、採掘された鉱石を美しく加工する鍛冶妖精の姿を見ることができる。




