その小瓶は、お守りだった
明け方に寝入り、太陽が西へ傾き始めた頃、フィンシスはようやく目を覚ました。重だるい体を惰性で起こしながら、尾を引く眠気を覚ますように首を振った。
──酒の量を抑えたはずだったが、どうやら自分の思っている以上に疲れが溜まっていたらしい。 出立までには普段の調子を取り戻さなければ。
ユウリは既に目覚めているのか、向かいのベッドは空っぽで、掛け布団が几帳面に畳まれていた。昼食でも買いに行ったのだろうか。次の街へは徒歩で二日ほどの距離だ。さっさとユウリに合流して、出発の準備を済ませてしまおう。
身支度を整えている最中、フィンシスの耳が喧騒を捉えた。宿屋の中がやけに騒がしい。というより、何やら慌ただしい雰囲気だ。部屋の中では会話の仔細まで聞き取れない。面倒事でないといいが。
外出の準備を整え、さぁ出かけようと振り向いた矢先、なんの前触れもなく部屋の扉が開けられ、ユウリが滑り込んできた。
「これで一旦……あ、起きていたのかフィンシス」
「気配を殺して近づくんじゃねぇよ、びっくりしただろうが!」
「悪い、癖だ。ところで、もう話は聞いたか」
「は?一体なんの──」
「ディニスが死んだ」
………………ユウリが何を言っているのか、フィンシスには理解できなかった。死んだ?ディニスが?
まるで連絡事項を伝えるように事務的なユウリの口ぶりが、その困惑に拍車をかける。一時を共にしただけではあるが、赤の他人ではないのだ。なぜあんなにも、ユウリは淡々としていられるのだろう。
「今朝方部屋を訪ねたら、もう死んでいた。外傷も、争った痕跡もない。おそらく自殺だろう。今、医者を呼んで死体を診てもらってる。荷物と所持金は宿の主人に渡すよう手紙が──」
言葉が頭の中を滑っていく。何故こんなにも動揺しているのか、フィンシス自身にも分かっていなかった。突然の死など、この世界ではありふれているというのに。
自分が思っていた以上にディニスのことが気に入っていたのか。あるいは、彼の心にもっと踏み込めていたならばと、後悔に襲われているのか。己が心の整理もままならないまま、フィンシスはユウリに促され、ディニスの部屋へ足を運んだ。
ユウリに案内されるまま扉を開けると、宿屋の一室に似つかわしくない清廉な空気が通り抜けた。ベッドのそばに立っているのは医者だろうか、どこかで見た事があるような気がする。頭に三角巾、口元にリネンを巻いた赤毛の女が、二人に気づいて扉へ目線を向けた。
「ユウリ!死人のいる部屋に人を連れ込むのは、あんまり感心できないよ」
「聖浄結界を張り直した、換気もしてる。」
「魔術ってのは相変わらず何でもありだね。こんな時ではあるけど、獣人さんも元気になったみたいでなによりだ。二人は、このお兄さんのお知り合い?」
「あぁっと……」
「今朝方まで一緒に飲み明かしていた。」
「……早く帰りなって言ったじゃないか」
「楽しかったから、つい」
ユウリと親しげに話すこの女性は、どうやらフィンシスを知っているらしかった。会話を続ける二人のすぐ隣、ベッドに横たわる人影が見える。ゆっくりとそちらに目線を向けると、かたく目を閉じて、身動ぎ一つしないディニスの姿があった。
戦いの跡も、暴力の痕跡もない。一目見ただけでは、死人であると分からないほどの清潔さ。しかし、ディニスの血の気の失せた顔が、乾いてひび割れた唇が、止まったままの胸が、彼の全身が、まざまざと死の事実を克明に示していた。
「ディニス!そんな、本当に……」
本当に死んでしまったのか。昨日はあんなにも楽しそうだったじゃないか。その小瓶は、お守りなんじゃなかったのか。女神様に元気をもらえるって、そう笑っていたじゃないか。お前の終わりは、こんな場所で、良かったのか。
「検死の結果は?」
「死因は毒物、それもとびきりキツいやつ。この瓶に入ってたやつね。飲んで数分後にはこの世とオサラバ、苦しまずに死ねただろうさ。まったく、こんなに若いのにね……」
「この後はもう墓場へ?」
「最低限の準備をしたらね。清潔な布で全身を覆って、暴かれないように麻袋で包んでやって。アタシにできるのはそれくらいさね」
「了解した。墓地街の管理人には話を通してある。夕方には埋葬の準備が整うと」
「行ったり来たりさせてすまないね」
ディニスの死にフィンシスが打ちひしがれている間、二人は埋葬に関しての確認を進めていた。悲しむ時間は当の昔に過ぎたとでも言わんばかり、職業人としての会話が交わされている。
隣人の死という非日常、その歪みが消えゆく現実のスピードに、フィンシスだけが取り残されていた。
「ついでだ、ユウリ。旅人さんを墓地街まで連れてっておやりよ。あんたたち以外に知り合いもいないだろうし。着いたあとは、管理人のお嬢ちゃんが上手くやってくれるだろうさ」
「いや、そこまでは別に──」
「分かった、そうさせてくれ」
ユウリの言葉を遮り、気づけばそう口にしていた。惜別か、使命感か、はたまた別の何かか。行き場を失った感情の向かう先を見つけたかのように、フィンシスは立ち上がった。
「ほんとに大丈夫かい?無理はするもんじゃないよ、あとはこいつが最後まで面倒を見るからさ」
「勝手に言うな。……お前の好きにすればいいさ、せいぜいこき使ってやる」
「まったくもう……獣人さん!準備をするからついてきとくれ」
メイルと共に部屋を出るフィンシスの背中を、ユウリはただ静かに見つめていた。やがて二人の姿が扉に遮られた後、静かに後ろへと──ディニスの眠るベッドへと向き直った。先刻とは打って変わって、その顔はひどく悲しそうに見えた。
「ほんとにこれでよかったのか、先輩」
TIPS10:聖浄結界
巡礼者の一派閥、引導派が用いる洗礼呪法の派生魔術。結界内のエーテルを絶えず循環させることで、内部にある遺体の劣化、腐敗を防ぐ。洗礼呪法の中では習得しやすい部類であるが、覚えようとする巡礼者は少ない。
重視されるべきは魂の救済。その抜け殻を気にする余裕などないというのが、大抵の巡礼者の見解である。
故に、この結界を用いるのは余程の人格者か、天性の巡礼者のみであろう。




