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第四話

お読みいただきありがとうございます!第四話どうぞ!

 それから数日。相変わらず、私の日常はうだつの上がらない日々へと逆戻りしていた。


 だが、あの日の「冒険」の記憶が、どうしようもなく頭から離れなかった。久しぶりに心が大きく揺り動かされ、ずっと凍りついて止まっていたはずの時間が、微かに動き出したような感覚。


「この部屋に閉じこもっていても、何も変わらない。何かが動くわけもない」


 そう思い立った私は、わずかな勇気を絞り出し、少しの遠出をしてみることにした。自分の殻を破るための「何か」を求めて、都内へと向かう。


 電車で一本で行ける距離とはいえ、十数年間を仕事だけに捧げてきた私にとって、東京はほぼ未開のジャングルに等しかった。

 まずは、名前だけはよく耳にする「目黒」へと降り立ってみる。


 駅の改札を出ると、都会的なガラス張りのビルのすぐ隣に古い住宅街の気配が溶け込んでいて、流れる時間が少しだけ緩やかに感じられた。


 目黒の街並みについて、前日にSNSで調べてはきたものの、無一文に近い私にはどれも贅沢な選択肢に思えて、有名そうな建物の前まで行っては外観を眺めるだけ。結局、店には一歩も入らず、ただひたすらに見知らぬ街を徘徊した。


 三時間弱ほど歩き回っただろうか。自分が求めていたような決定的な「何か」は見つからなかった。

 それでも、初めて歩く「知らない道」というだけで、胸の奥が少しだけわくわくしている自分に気づく。大した収穫はなかったけれど、今日のところはこの小さな高揚感だけでも持って帰ることにしよう。


 そのままあてどなく歩き回った結果、気づけば渋谷駅の周辺までたどり着いていた。


 「帰りはここから電車に乗ろう」


 そう思い立ち、渋谷駅の二階に位置する遊歩道のようなペデストリアンデッキの階段を上り、駅のほうへ向かおうとしたそのときだった。


 突如として、甲高い女性の「きゃーっ!」という悲鳴が空気を切り裂いた。


 反射的に声の方向へ視線を向けようとしたまさにその瞬間、一人の若い男性が、自分の背負っていたリュックサックを咄嗟に右手で掴み取り、その持ち手を軸にして、自分の身体の周りでまるでハンマー投げの選手のようにぐるぐると激しく回転させ始めた。


 四、五回ほど凄まじい勢いで遠心力をつけたのち、男はそのリュックを悲鳴が上がった方向へめがけて、渾身の力で投げ飛ばした。


 鈍い音とともに、投げられたリュックが何者かの頭部に直撃する。


 よく見ると、その直撃を受けた男は、血に染まった不気味なナイフを握りしめていた。その足元には、腹部を押さえてうずくまる女性の姿があり、そこから鮮血が白いシャツを見る見るうちに真紅の絵の具を溶かしたように染め上げていく。


 その凄惨な光景を目の当たりにした瞬間、先ほどリュックを投げ飛ばした男が、まるで空を飛ぶように宙へ舞っていた。

 リュックを投げてから、おそらくまだ五秒にも満たない間の出来事だ。


 両足を高々と突き上げたその男の姿は、まさにプロレス技の「ドロップキック」そのものだった。その勢いのまま、男はナイフの男に強烈な一撃を叩き込み、二人はそのまま近くにあった商業施設の自動ドアへと吹き飛んだ。ガラスが砕けた氷のようにガシャリと派手に砕け散る。


 刹那の隙をついて、着地した男は刺された女性の背後へと素早く回り込み、その脇の下に両腕を差し込むと、コンクリートの地面を擦る重い音を立てながら、そこから安全な場所へと力任せに引きずり出した。


 そして周囲の野次馬に向かって、緊迫した声で叫んだ。


「誰か救急車を! きれいな布があれば貸してください! 傷口を圧迫して止血を!」


 的確な救命処置の指示を飛ばす男。しかし次の瞬間、破壊された商業施設の入り口から、今度は傘立てのプラスチックケースが遊歩道へ向かって放り出された。


 それと同時に、先ほどのナイフの男が、まるで正気を失った獣のような野獣の咆哮を上げながら飛び出してきた。その手には、まだ血に濡れたナイフがしっかりと握られている。


 それに対応するように、先ほどまで救命処置を仕切っていた男が、周囲へ「ここはお願いします」と言い残し、狂乱の男へと向き直った。


 二人が激突した刹那、獣のような男がナイフをめちゃくちゃに振り回す。男はそれを、紙一重、いやミリ単位の神業のような身のこなしでかわし続けた。


 ――いったいどうすれば、あんな極限状態でそんな凄まじい度胸と動体視力を得られるのだろうか。


 そんな馬鹿なことを考えている間にも、冷静に観察すれば、どう見てもあの男が圧倒的に不利だった。


 男の体格は身長一七〇センチ前後の痩せ型に見える。それに対し、暴れる男は身長一九〇センチはあろうかという巨体で、まるで岩石をそのまま人間の形にしたような筋肉の塊のようなヘビー級だ。ナイフが無くても、この体格差の前では一発の殴打の威力が違いすぎる。万が一組でもつれ込まれたら、その瞬間に勝負は決まる。頭の中でかじった格闘技の浅薄な知識が、最悪の結果を予感させる。


 SNS全盛のこんな時代だ。これだけの大事件が起これば、周囲の野次馬たちはこぞってスマホのカメラを向け、野次を飛ばすだけ。まったく、冷え切った電子の海のような嫌な時代になったものだ。


 案の定、ナイフを弾き飛ばされた巨体の男は、より一層狂暴な殺意をむき出しにして飛びかかってきた。


 その突進は、まさに「巨神兵」のそれだった。まともに食らえば一たまりもない。だが、細身の男はその猛攻をひらりひらりと、まるで木の葉のようにかわし続ける。


 次の瞬間、男の研ぎ澄まされた強烈なハイキックが、巨体の顎を正確にとらえた。


 男はぐらりと後ずさったが、怒りでアドレナリンが振り切れているのか、致命傷には至っていない。細身の男は休む間もなく、さらなる連続の蹴りを叩き込む。巨漢の顔面から鮮血が飛び散り、ついに片膝を地面についた。


「これで決まるか……!」


 誰もがそう思った瞬間、狡猾にも巨漢の男は、野次馬のなかにいた幼い子供を強引に掴み取り、自分の盾の前に差し出した。


「子供を返して! お願い、うちの子を放して!」

 親の泣き叫ぶ声が響く。男がその光景に気を取られ、攻撃を緩めた一瞬の隙。


 巨漢は持っていた子供を容赦なく男の顔面めがけて投げつけた。男は咄嗟に身を翻し、我が身を挺して子供を優しく抱きとめ、無事にキャッチした。


 しかし、その無防備な背中に、巨漢の卑劣な鉄拳とキックが容赦なく浴びせられる。子供を抱えているためまともに身動きもできず、男はサンドバッグのように殴られ続けた。


 顔面からは大量の血が流れ、胴体を強打されたせいで息も絶え絶えだ。ついに限界を迎えたのか、強烈な一撃を食らった男はそのまま地面に崩れ落ち、ぐったりと動かなくなった。


 泣き叫ぶ子供は、すぐに母親の元へと走り去っていく。


 巨漢はハァハァと荒い息を吐きながら、先ほど刺した女性のほうへ再び歩き出そうとしたが、先ほどの連撃のダメージが蓄積していたのか、その巨体がぐらりと揺れ、たまらず片膝をついてうなだれた。


 すかさず数人の警察官たちが刺股を手に男を包囲したが、荒れ狂う巨漢に次々と投げ飛ばされ、まったく歯が立たない。一人の警官がやむを得ず空へ向かって一発の威嚇射撃を放ったものの、男は血走った目で振り返ると、『こんな大観衆の前で、お前ら警察官に撃てるわけがないだろう』と不敵に嘲笑い再び歩き出した。


 ――そのときだ。


 私は、ただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。格闘技の経験など一度もなく、人生で喧嘩すらしたことがない私には、こんな修羅場に飛び込んでいけるだけの度胸など到底ない。


 「でも、何か……何か私にできることはないのか……?」


 頭の中でそう自問しながら、野次馬の隙間をかき分けて女性のほうへ近づこうとした、まさにその時だった。

 視界の端で、先ほどの細身の男が、血だらけの顔でむくりと上半身を起こしたのが見えた。

 巨漢の男がギョッとした目で見据える中、男は荒い息を整えながらゆっくりと立ち上がる。激しい戦闘でボロボロに引き裂かれた上着を、邪魔だと言わんばかりに力任せに脱ぎ捨てた。


 そして――。


 男は数回、深く息を吸い込み、肺の空気をすべて吐き出すようにして呼吸を調え始めた。


 片足を半歩前に出し、両腕を大きく突き上げ、まるで限界まで引き絞られた弓の弦のように全身をしならせる。


 ――スーッと、周囲の音が消えるほどの静寂の中で息を吸い込み、クッと限界まで止めたその瞬間。


 しなるバネの反発力と、弓矢が放たれる原理そのものの凄まじい瞬発力で、男の体が発射された砲弾のように巨漢へ向かって突進した。


 人間がこれほどまでに俊敏に動けるものなのか。

 あまりの爆発的なスピードに、巨漢は防御の構えをとる暇すらなかった。男は一瞬で間合いを詰め、その全体重を乗せた強烈な膝蹴りを巨漢の懐に突き刺す。――ジャンピングニーだ。


 まともにその一撃を食らった巨漢の巨体が、まるで風船のように宙を舞い、吹き飛んだ。


 男はそこで止まらない。追撃の手を緩めず、なおも這い上がろうとする男に突進する。途中、巨漢に足を掴まれ、近くにあった金属製の柱へと力任せに投げ飛ばされた。金属が激しい音を立ててひしゃげるほどの衝撃だったが、男はその衝撃を巧みないなし方で逃れ、再び素早く立ち上がって跳びかかった。


 その圧倒的な攻防の最中、私は「自分にもできることがあるはずだ」と、刺された女性のほうへ必死に駆け寄った。


 だが、すでに現場には、先ほどの男の指示を聞いた人々が的確に動いていた。一人が懸命に傷口を押さえて止血し、別の誰かがすでに一一九番へ通報し、指示を仰いでいる。


 ――私にできることは、何一つなかった。


 そうこうしているうちに、周囲の野次馬から「うわあ……!」という大歓声とどよめきが上がった。


 ハッと視線を戻すと、男が最後に放った凄まじい回し蹴りが巨漢の側頭部を捉え、ついにあの怪物を完全に沈黙させていた。


 しかし、勝負の決まった男の足元はフラフラと頼りなく、今にも倒れそうだった。


 そして――次の瞬間。


 男は「ふぅっ」と白い大量の息を吐き出すと、そのまま糸が切れたようにその場に崩れ落ち、動かなくなった。


 極限状態の中で呼吸を極限まで止め、身体能力を強制的に引き代えにした代償。おそらく、極度の酸欠と疲労困憊で意識を失ったのだろう。


 その泥臭くも雄々しい背中を見つめながら、私はなぜか、胸の奥がどうしようもなく熱くなっていることに気づいた。


「……あの人を、助けなきゃ」


 そう思って一歩を踏み出そうとした瞬間、大勢の警察官たちが、倒れ伏した男と凶行の男を取り囲んだ。

 巨漢には容赦なく手錠がかけられ、そして、命がけでこの場を守ったはずのあの男性の腕にも、冷酷な手錠がかけられようとした。


 その瞬間だった。


「おい、ちょっと待てよ!」

「ふざけるな! その人はこの街を守ったヒーローだぞ!」

「お前たち警察官は、さっきまで物陰で見ていただけじゃないか!」


 野次馬の中から、怒号のような非難の声が一斉に沸き起こった。


 その大衆の怒りと熱気に気圧されたのか、警察官たちは男性の手錠をかける手を引っ込め、まず救急車を呼ぶよう無線へと走った。


 その騒然とした空気の中、刺された女性の止血を必死に続けていた人が、青ざめた顔で絶叫した。


「だめだ……! 呼吸が止まりました! 脈もありません!」


 周囲の空気が一瞬で凍りついた。


 その悲痛な叫びを聞きつけるやいなや、意識を失っていたはずのあの男性が、ふらふらと這うようにして起き上がり、女性の元へと血だらけの足を引きずりながら戻ってきた。


 男は止血していた市民に「すみません、遅れました」と短く告げると、一瞬で状況を把握し、周囲へ的確な指示を飛ばし始めた。


「人工呼吸を始めます! 誰か、今すぐ近くの商業施設からAEDを持ってきてください!」


 それを聞いた瞬間。


「……僕が行きます!」


 私は反射的に叫び、誰よりも早く商業施設の入り口へと走り出した。


 だが、生まれて初めて足を踏み入れた広大なビルの中だ。どこに何があるのか、案内板を見てもまったく頭に入ってこない。焦りとパニックで足がもつれ、右往左往するばかり。


 数分後、ようやくたどり着いた総合案内所で、息を切らしながら受付の女性に事情を説明し、AEDを貸してほしいと必死に頼み込んだ。


 だが、受付の女性は申し訳なさそうな顔で首を振った。


「あ、お客様……。数分前におなじことをおっしゃる方が駆け込んできまして、すでに別の方がAEDを持ち出されましたよ」


 ――まただ。


 私はその場で立ち尽くした。

 外へ飛び出し、先ほどの現場に戻ると、すでに負傷した女性も、あのボロボロの男性も、サイレンを鳴らす救急車のなかに乗せられ、慌ただしく走り去っていくところだった。


 ……本当に、私はどこまでいっても「間が悪い」男だ。


 ここぞという決定的な場面で足がすくみ、頭が真っ白になって動けなくなる。


「変わりたい」と願い、わずかな勇気を出して一歩を踏み出してみたものの、結果として私は何もできなかった。あんなふうに命を張って誰かを救うヒーローの雄姿を、ただガラスのショーケース越しに眺めるようにただ指をくわえて見送ることしかできなかった。


 もっと早く動ける人間になれたなら。

 いつか、私も誰かのために何かを成し遂げられるような、そんな人間になれるのだろうか――。

 その日は何もできなかった喪失感を胸に、私は家路へつくのだった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!次回の展開もお楽しみに。感想やブックマークもぜひよろしくお願いします!

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