第二話
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翌日、自宅のチャイムの音で目が覚めた。
インターホン越しに外を覗くと、数人のおじさん——スーツ姿の男たちが立っている。何事かと嫌な予感を覚えながら、受話器を取って要件を確認した。
「神奈川県警のものです。おっさん(仮)のご自宅で間違いないでしょうか」
警察!?
その二文字に心臓が跳ね上がり、反射的に「はい、間違いありません」と答えてしまう。すると、警官の一人がさらに言葉を続けた。
「先日、〇〇市内で起きた窃盗事件についてお話を伺いたいので、署までご同行をお願いできますか」
何のことだかさっぱり見当もつかなかったが、下手に拒否して無用な疑いをかけられるのはごめんだった。私は大人しく同行に応じた。
警察署に到着すると、そのまま真っ直ぐ取調室へ通され、男たちによる事情聴取が始まった。
話を聞けば、先日あてどなく住宅街を歩いたその日、付近で数件の空き巣・窃盗被害があったという。その日は平日の昼間ということもあり、留守中の家を狙った犯行と見られているらしい。
そんな中、付近に駐車されていた複数台の車のドライブレコーダーに、うろついている私の姿がしっかりと映り込んでいたというのだ。さらに、その映像を見た関係者——よりによって、先日辞めたばかりの元の職場の人間が私に気づき、そこから警察に名前が浮上したらしい。
あらぬ容疑をかけられていることだけでも頭がおかしくなりそうなのに、よりによって元職場の人間に「私が容疑者扱いされている」という噂を面白おかしく触れ回られるのではないか。
そう想像しただけで、背筋を氷の塊が滑り落ちるような寒気と吐き気がこみ上げてくる。
もう二度と関わらなくていいはずだったのに、こんな形で再び過去の人間関係が頭をよぎる。また世間から勝手な印象を貼り付けられ、「変質者」や「犯罪者」の枠に仕立て上げられていくのだと考えると、耐えがたいほどの絶望感に襲われた。
ありもしない最悪の想像が頭の中で雪だるま式に膨れ上がり、不安が不安を押し広げていく。強烈な動悸が始まり、指先がブルブルと震え、呼吸が浅く、苦しくなって、脳みそがエンストを起こした古いエンジンのようにぐらぐらと異音を立てて暴走する。
そんな私の内側のパニックなど露とも知らない刑事たちの調書は、冷淡に、淡々と続いていった。
ようやく解放されたときには、すっかり夜のとばりが下りていた。
帰り道の足取りは重く、気力も体力もすり減り、まるでサンドペーパーで魂をごりごりと削り取られたような疲労感だけが残っていた。そんな中で脳裏に去来するのは、ただ一つの感情だけだった。
「……疲れた」
家に帰り着き、蒸し暑い部屋の中で電気もつけずにぼーっと立ち尽くしていたとき、視界の隅にインスタントラーメンの袋が目に入った。
その瞬間、言いようのない悔しさ、虚しさ、そしてどうしようもない切なさが胸を突き刺す。
数十年間もの時間を捧げた職場では、自分の努力を微塵も力に変えることができなかった。大勢の壁に阻まれ、自分の意図とは全く違う、ゆがめられた印象だけを周囲に塗りつけられる人生。誰にも認めてもらえず、誰にも心を開けない孤独な日々。
そして、そこから逃れるようにして手に入れた、精神疾患という後天的なお荷物。
もう、何もかもが嫌だ。何も考えたくない。すべてを投げ出してしまいたい。
その瞬間、汗ばんだ手で掴み取ったのは、心療内科から処方されていた睡眠薬をごっそりと詰め込んだ小さなガラス瓶だった。
「眠れないときはできるだけ薬に頼りたくない」と我慢し続けた結果、飲まれずに溜まりに溜まっていたものだ。「いざとなればいつでもここから逃げ出せる」という、いわばお守り代わりに枕元に置いていた小瓶だった。
だが、もう限界だった。これ以上、希望も未来もない人生にすがってまで、生き続ける意味がどこにあるというのか。
震える手で小瓶を強く握りしめ、私はそのまま家を飛び出した。
向かったのは、近くにある大きな橋の上だ。車通りも途絶えた深夜の静寂の中、私はこの小瓶の中の大量の睡眠薬を喉に流し込み、濁った川へと身を投げた。
――これで、やっと終わるんだ。
うっすらと、眩しい光が見える。
あまりの強烈さに、まともに目を開けていられない。まぶたの裏で痛む光に耐えながら、ゆっくりと時間をかけて目を凝らすと、視界に飛び込んできたのは天井の白い蛍光灯と、周囲を囲むカーテンだった。
見慣れた、しかしここ最近は縁がなかったはずの光景——それは間違いなく、病院の病室だった。
どうやら、私は死ぬことすら失敗したらしい。
しかし、あの濁流に飛び込んで、一体どうやって生き延びたというのか。
そんな疑問が頭をかすめたとき、病室の廊下をコツコツと足音が近づき、やがてシャッとカーテンを開けた。彼女と目が合う。
「あ、目が覚めたんですね! 先生を呼んできますので、少しだけお待ちください」
看護師はそれだけ言い残すと足早に病室を去り、すぐに担当医を連れて戻ってきた。
「気がつきましたか。どこまで記憶にあるかは分かりませんが、経緯をお話ししておきますね」
医師は静かな口調で説明を始めた。
「あなたが身を投げたあの川ですが、当時は雨が降らない日が数日続いていたせいで、ちょうど運悪く(あるいは運良く)浅瀬ができていたんです。そこにあなたが引っかかっているところを、早朝に釣りに来ていた方が見つけて通報してくれ、一命をとりとめました」
医師の淡々とした説明を聞きながら、私は脱力した。
その前まであんなに雨続きだったのに、いざ自分が人生の幕を引こうと行動を起こしたときには、都合よく雨が止み、浅瀬ができている。
――本当に私は、どこまでいっても「間の抜けた」男だな。
だが、そんな感傷に浸っている間もなく、脳裏を駆け巡ったのは現実的な恐怖だった。
……通帳に残されたわずかな貯金を思い出す。これ以上入院が長引けば,、退院した後の生活費どころか、医療費すら払えなくなってしまう。
咄嗟に医者の白衣の袖を掴み、即座の退院を懇願する。しかし医師は私の手を拒むことなく、まるで凍えた小動物を包み込むようにそっと握りしめて言った。
「あなたは死にかけたんですよ。それに、薬の大量摂取をしていたため、緊急の胃洗浄も行っています。血液検査の結果、肝機能や腎機能に重い合併症が出ていないかしっかり経過を見なくてはなりませんから」
その言葉を聞いて、私は心の底から絶望した。
死を覚悟して決行したはずの行動すら中途半端に失敗し、救われることもなく、また地獄のような現実と、突き刺さるような経済的な困窮が待ち受けている。
だが、オーバードーズと溺水の代償は大きく、確かに今の私の身体には一歩も動かすだけの力が残っていなかった。今日はもう、医者の言う通り素直に従うしかなかった。
それから数日後。検査結果に大きな問題はなく、「二度と同じことはしない」と主治医に固い約束を交わし、ようやく退院の日を迎えた。
一度は自分の意志で命を絶とうとした人間が、ボロボロの体を引きずってまた元の狭いアパートへ戻る。皮肉なものだ。
退院して約一週間ぶりに帰ってきた我が家は、相変わらず部屋の中はむしむしと熱気がこもり、狭く、どうしようもなく空気がむなしい。
いつものようにサーキュレーターを回し、窓を開けて一息つく。ふと、嫌な予感がして冷蔵庫の扉を開けた。タッパーに入れて保存していた炊き込みご飯を取り出し、蓋を恐る恐る開けてみると、鼻を突くような異臭とともに、ご飯は無残に腐り果てていた。
冷蔵庫に入れていたとはいえ、一週間以上も放置していたのだから当然だ。衛生面を考えて泣く泣くゴミ箱に放り込んだが、今の底辺の生活を送る私にとって、このわずかな白米すらこの上なくもったいなく、痛い損失に思えてしまう。その日の夕食も、結局はあり合わせのインスタントラーメンで済ませた。
――病院にいた数日間は、ちゃんと栄養のあるおかずがついた食事が出ていたんだよな。あんなにご飯が美味しく感じられたのは、いつぶりだっただろうか。
「また、ちゃんとしたおかず付きのご飯が食べたいな」
そんなささやかな未練を心に抱きながら、退院手続きの疲労で重くなった体をベッドに投げだし、その日はすぐに眠りについた。
それからさらに数日が経ち、心療内科の定期健診の日がやってきた。
診察室で、主治医にこれからの生活の不安をぽつりとこぼすと、先生は優しくうなずきながら今後の通院スケジュールや薬の調整をしてくれた。少しだけ気持ちが軽くなった気がして、私は病院をあとにした。
しかし、現実の財布事情は何も変わらない。
銀行口座に残されたわずかな残高をアプリで確認するたび、冷や汗が滲む。いよいよ食費も削らなければならない時期に差し掛かり、毎日の食事はさらに質素なものになっていった。
日中は強烈な暑さを逃れるために河川敷の日陰を探してぼんやりと過ごし、空腹を満たすためだけにインスタントラーメンをすすり、寝て、起きて、ただそれだけ。人生の彩りなんてものは一切なく、希望も夢のかけらもない日々。
そうして爪に火をともすような生活を続け、わずかに残っていた貯金がいよいよ底を突きかけた、そのときだった。
長年勤めた会社から、最後の給与のまとまった振込が実行されたのだ。
スマホの画面に表示された数字を確認した瞬間、私は思わずその場でほっと息を吐き出し、胸をなで下ろした。今月の餓死は免れた。
お金が手に入ったとなれば、いま一番やりたいことは決まっていた。
それは、近くのスーパーで売っている「総菜のコロッケ」を買うことだ。
やっと、インスタントラーメン以外の、ちゃんとした「おかず付きのご飯」にありつける。そう思うだけで胸が高鳴り、足早にスーパーへ向かった。お目当てのコロッケをトレイに乗せ、レジで会計を済ませると、逃げるように家路を急いだ。
冷蔵庫の奥にストックしてあったご飯を電子レンジでアツアツに温め、作りたての総菜コロッケと一緒に口の中へ思いっきり頬張る。
サクッとした衣の中から、じゃがいもの優しい甘さと香ばしいラードの風味が口いっぱいに広がる。砂漠のど真ん中で冷たい井戸水にありついたかのように、インスタントラーメン以外の食べ物を口にするのが、どれほど贅沢で尊いことか。
あまりの美味しさに、不覚にも泣きそうになってしまった。
至福のひとときはあっという間に過ぎ去り、満腹感に満たされたあとで現実的な財布の中身を確認する。生活費の分を差し引いて、手元に残るのはほんのわずかだ。本来なら一円たりとも無駄遣いせず貯金すべきなのだろうけれど——それでも、私の頭の中には, どうしても行きたい「たった一つの場所」があった。
それは、街の美容室だった。
すっかり伸び散らかしてボサボサになった頭髪を整えてもらうこと。それが表向きの目的だが、本当の目的は他にある。
その美容室には、二十代半ばくらいの優しい女性の美容師さんがいた。初めてそこに行ったのは約二年前、定期健診の帰りにふらっと飛び込んだのがきっかけだった。
担当してくれた彼女の第一印象は、とにかく「手の温もりと、優しさ」だった。シャンプーのとき、頭を包み込むように優しくマッサージされると、トゲトゲしていた心が不思議と温かい気持ちで満たされたのを覚えている。おまけにこちらの注文通りの髪型にしてくれるし、何よりマッサージの腕が抜群に上手かった。
それ以来、私にとってその美容室に通うことは、「仕事を(何とか)頑張った自分への唯一の月一往復のご褒美」になっていた。
対人恐怖症を抱え、女性と話すのは今でも苦手だったが、なぜかその美容師さんとは、世間話を交えながら割とまともに喋ることができた。向こうの営業トークもあるのだろうが、それを差し引いても、あの空間の心地よさは格別だった。
「よし、行こう」
そう決意して予約の電話を入れると、幸いにも翌々週の土曜日に予約が取れた。
そして迎えた当日。
約二ヶ月ぶりに訪れた私の頭を、彼女はいつものように優しく包み込み、心地よい手つきでシャンプーをしながらカットの要望を聞いてくれる。
「きっとこの人は、生まれつき心が優しくて、素敵な人なんだろうな……」
そんな敬意と、同時にふっとわき上がる切なさが胸をよぎる。こんなにも素敵な女性に綺麗に髪を整えてもらえる恋人や夫は、どれほど幸せなことだろう。私とは住む世界が違う。そんな少しばかりの羨望が混ざったとき、決まって私の脳内にはback numberの『高嶺の花子さん』のメロディが流れてくる。
――ふと、その思考の沼から現実に引き戻される。
いやいや、十歳、下手をすればそれ以上年下の若い女性に対して、客の立場の男がそんなロマンチックな想像を膨らめるなんて、客観的に見たらただの気色の悪いおっさんじゃないか……!
そう自覚した瞬間、全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出し、ハラハラと落ち着かなくなってくる。
頭に触れられているだけで、「もしかして今の私のキモい妄想が、この人の心に透視されてしまっているんじゃないか!?」という、真夏の炎天下に分厚いダウンコートを着せられたような強烈な居心地の悪さに駆られる。もちろん、そんな超能力が彼女にあるわけもなく、すべては私の被害妄想と自意識過剰の産物なのだが、そのときの私にとっては冷や汗もののパニックだった。
鏡越しに目が合ったとき、彼女が少しだけ不思議そうな顔をしていた気がして、私はさらに縮み上がった。
施術が無事に終わり、そそくさと会計を済ませて出口へ向かう私に、彼女は眩しい笑顔でこう言った。
「またお待ちしていますね!」
その言葉に胸が少しだけ温かくなる嬉しさを覚える一方で、「今の挙動不審な態度、やっぱり気持ち悪がられたんじゃないだろうか……」という不安の澱を拭いきれず、もやもやとした不完全燃焼な気分を引きずりながら、私は家路につくのだった。
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