第一話
「お読みいただきありがとうございます!」
梅雨がなかなか明けず、じめじめとした湿気が肌にまとわりつく今日この頃。
私は、うだつの上がらない時間を過ごしている。
今はもうアラフォー、独身貴族気取りの寂しいおじさんだ。
節約のために扇風機だけで過ごし、エアコンをつけない部屋はまるで密閉された蒸し器のようで、じっと座っているだけでも体が溶けかけたロウソクのようにダラダラと汗を流していく。
前述では独身貴族などと強がってみたものの、友達もおらず、彼女のかの字も見える気配はない。
おまけに、十数年勤続した会社を先日退職したばかりだ。
この十数年、休む暇もなく、遊ぶ暇もほとんど持たず、ただひたすらに、国の膨大な歴史的資料や記録を管理する「中央アーカイブ施設」の地下深くで仕事に没頭し続けてきた。
だが、時代も在職する人たちも移り変わっていく中で、どうしても相いれない、自分に敵意を向ける人間は出てくるものだ。
それが役職者であり、言葉や勢いで周囲に強い影響力を持ち、おまけに中身が子供のまま大人になったような人物となると、自分がたどる道は最初から見えていたようなものだった。
私はその人物(以降はFと呼ぼう)とは別部署だったが、果てしなく続く迷宮のような巨大書庫のフロアの中で壁一枚を隔て、相互に影響し合うポジションにいた。
私の上司と私の、わずか二人だけの小規模なデータ管理部署だ。方やFは、フロアの大部分を牛耳る一大勢力のセクションの役職者だった。
私の上司は、全国の分散アーカイブを巡回する超多忙な人間だった。本人は優秀で頼りがいもあったが、自席にいることは滅多になく、連絡はもっぱら端末のチャットや内線越しが基本。
結果として、一人で1.5人分以上の過酷なデータ入力と管理の負荷を背負う日常が常態化し、歴史的な資料の整理期ともなれば息をつく暇もなかった。
扱うデータの性質上、どうしても隣接するFのセクションへ協力を仰がなければならない場面があった。
だが、Fはそれを「こちらの領域を荒らす迷惑行為」と勝手に曲解し、セクション全体を巻き込んで連日のように私を糾弾した。
静まり返った巨大な書庫のフロアの真ん中で、数十人対私一人という完全なアウェー。
そうして周囲に悪質な印象を植え付けられ、私は組織の中で完全に孤立していった。
それに加え、私は昔からどうしようもなく「間が悪い」。
山積みのデータ端末に向かい、必死にエラーを修正しているその瞬間に限って、上層部の監査官が通りかかり、「あいつはさぼっている」と誤解される。
誰もいない資料の影で偶然のバッティングが起き、まるで機密を盗み見していたかのような不気味な悪者にされる。
些細な誤解なのに、その場で気の利いた弁解ができない。
頭の中で「ここで言い訳するのはみっともないか」と損な思考が回り、エンジンが焼き付いた車のように言葉が完全に凍りつく。通常の業務データ処理なら完璧にこなせるのに、イレギュラーな対人関係になると途端に言葉が凍りつく。
遠方にいる上司も、毎日のように端末越しに届くFたちの誇張された報告を徐々に信じ込むようになり、私の孤立は決定的となった。
さらに状況は悪化する。人事異動でやってきた新しい中間管理職の男が、また輪をかけて救いようのない男だった。
上の立場や権力者には尻尾を振り、少しでも自分に面倒事が飛び火しそうになると全力で保身に走る。逆に立場の弱い人間や物腰の柔らかい人間には、これでもかとばかりに見下した態度をとる。
おまけにFの太鼓持ちを買って出て、書庫の通路の真ん中で私への嫌がらせを大声で笑い飛ばすような、空気の読めない男だった。
ある日、あいつらは私の席のまさに真後ろを陣取り、私をあからさまに標的にした悪趣味な身内パーティーを始めた。薄暗いアーカイブ施設のなかにけたたましい笑い声が響く。
あまりの異様な空気と吐き気に耐えかねて施設を飛び出した私は、そのまま自宅へと逃げ帰った。
結末は見るまでもない。心身の限界を超え、私は長期の休職を余儀なくされた。
そして傷だらけのまま別のアーカイブ部署へ復職したものの、そこにあったのは、特定の気に入った人間以外を露骨に冷遇し、力を持つお局スタッフの顔色を常に窺っている無責任な上司の姿だった。
「……ああ、私はここでもまた、底なし沼をループするのか」
その絶望感がトリガーとなり、私のなかで何かが音を立てて崩れ落ちた。
こうして、私の十数年にわたるワーカホリックな生活は、完全に幕を閉じた。
その後どうなったかといえば、結局は振り出しに戻るだけだった。
心身ともに燃え尽き、私は十数年勤め上げた職場を去った。
身を粉にして働き続けた果てに得たものといえば、深い孤独と、不安障害やパニック障害、そして対人恐怖症という名の精神疾患だった。
のちに、専門の治療や診断を受けたことで、自分がADHDであり、そこから来る「拒絶過敏症(RSD)」――人からの拒絶や否定的な視線に、人一倍激しく傷ついてしまう気質を抱えていることも発覚した。
すでに三十五歳を過ぎていた。
貯金は削られ、日々の生活費すら心もとなくなっているというのに、再就職先を探す気力も起きない。
電気代をケチるためにエアコンをつけない狭いアパートの部屋は、梅雨時のじめじめとした湿気と熱気がこもり、サウナのように息苦しい。
どうしようもない焦燥感と無力感に押し潰されそうになりながら、私は澱んだ空気を変えるため、気分転換に近くの住宅街へと足を踏み出すことにした。
お昼前の陽気の中、仕事で車をまわす人たちや、日常を謳歌する一般の人々を見かける。
その姿を目にするたび、世間のまぶしい光がまるで鋭い針のようになって私の胸をチクチクと突き刺し、強い劣等感が締め付ける。
家々の作る日陰伝いに、ただあてもなく歩く。
汗拭きシートで額の汗をぬぐいながら住宅街の細い道を抜けていくと、やがて小さな歩道橋にさしかかった。
階段を上り始めた、まさにそのときだった。
上のほうから「きゃっ」という小さな悲鳴が聞こえ、思わず反射的に視線を上に向ける。
そこにいたのは、制服を着た一人の女子高生だった。階段を踏み外したのか、段差にもたれかかるようにバランスを崩して倒れ込んでいた。
「大丈夫か?」と心の中で心配し、助けを呼ぶべきか目を配らせたその瞬間、意地悪な一陣の風が吹き抜け、彼女のスカートを派手にまくり上げた。
その瞬間、イチゴ模様の可愛らしい下着が視界に飛び込んでくる。
彼女は慌ててスカートを押さえつけ、真っ赤な顔でこちらを睨みつけた。
その目には、とてつもない嫌悪感と警戒の色が浮かんでいた。
その痛烈な拒絶の視線を受けた瞬間、私は頭を鈍器で思い切り殴られたような強烈なめまいを覚え、遠い過去の記憶が一気にフラッシュバックしてきた。
【回想:コンビニの女性店員】
まだ二十代のころだった。コンビニで買い物をした際、お釣りの小銭を受け渡そうとした女子高生店員の手が、ふと私の手に触れた。
その瞬間、彼女は「ひっ」という短い息を吞むような声、まるで汚いものに触れたと言わんばかりの露骨な拒絶反応を示したのだ。
その拍子に、私の手に落ちるはずだった小銭がチャリンと乾いた音が響き、切ない音が店内に響いた。
私は一言もしゃべれず、小銭を一枚ずつ拾い集め、あまりの惨めさに下を向いたままコンビニを後にした。そういえば、あそこのコンビニにはそれっきり一度も行っていないな。
【回想:二十代前半のころの元カノ】
その人は、どうしようもない破壊衝動を抱えた人間だった。
少しでも自分の気にいらないことがあると激昂し、手近なものを叩き割り、暴力を振るうため、私の体は常に青あざや擦り傷が絶えなかった。
同棲するまではその凶暴な本性に気づけなかったのだ。一緒に暮らし始めてからは彼女はすぐに仕事を辞め、私の稼ぎを食い潰すだけの存在になった。
同棲中も癇癪は収まらず、あるときは部屋の壁に何度も全体重を浴びせて大きな穴をあけたこともあった。
極めつけは、些細なすれ違いから大喧嘩になったときのことだ。
逆上した彼女は、キッチンのナイフを手にとって私の背中を浅く切り裂いた。
「なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのか」
悔しくて、悲しくて、血を滲ませる背中を押さえながら一人で泣いた。
だが、その直後すら私は「もし病院に行って警察沙汰になったら、自分の生活はどうなるんだ」という心配をしていた。
歩いて近くの診療所に向かい、治療中の診察台で医師から「警察に通報しますか?」と聞かれたが、「自分でなんとかします」と気丈に断ったのだ。
あのとき素直に助けを求めていれば、私の人生はもう少し違う未来になっていたのだろうか。
治療を終えた帰り道、背中から血がじわりと滲み出す中で食べた、冷め切ったコンビニのパンの味は今でも忘れられない。
【回想終わり】
……そんな昔の記憶に浸っているうちに、ふと現実世界に引き戻された。
先ほど、すごい形相で私を睨みつけていた女子高生は、すでにその場にいなかった。
ただ涼もうと家を出て、あてもなく住宅街をうろついた挙句、帰り道にこんな気まずい出くわし方をするとは――なんとも、私らしい「間の悪さ」の象徴のような出来事だった。
しかし、この偶然のトラブルが、この後の私の運命を大きく狂わせる――いや、思わぬ方向に叩き落とす、ほんの「序章」にすぎなかったことを、このときの私はまだ知る由もなかった。
じめじめとした湿気の中、すっかり冷え切ったもやもやを抱えながら、私はすごすごと帰路につくのだった。
「ここまでお読みいただきありがとうございます!次回の展開もお楽しみに。感想やブックマークもぜひよろしくお願いします!」




