22 経糸 ミネルヴァとラミア―
人が集まる場に赴く事が苦痛でならない。今もあちらこちらに意識を持ってゆかれる。薬師メリナが用意してくれた感覚を鈍らせる薬は無いよりもましという程度.。普段は人を避けて暮らしているが、ミネルヴァの加護を持つ以上このような場はたまにある。大窓から陽射しがさしこむ広い審議室。審問官が三人なのは致し方ないが、書記官は一人だ。夫々の従者は室外に出されていた。この広い室内で声が届くぎりぎりに、王室の関係者だか法務の者が二人と僕の付き添いであるティタ家の当主とが傍聴するだけ。全てを見通す眼の加護に配慮はされているのだ。きっとティタ家の当主が申し入れたのだろう。思えば親戚と言うだけで、彼にも面倒を掛けて来た。
人はミネルヴァの加護が嘘、偽りを嫌悪すると言う。僕自身もそれを盾にしてきたが、正確には違う。ミネルヴァの加護は魂を標に世界を渡るのだ。この世はあらゆるものの魂で編みあげられている。まるで神が放り出した無数の糸玉から、これもまた無数の糸がこぼれ出て広がった空を飛ぶように。僕は虚飾によって標である魂を掴み損ねるのが怖い。あの交錯する無数の光の中に堕ちれば僕はどうなるか。恐ろしく、同時に酷く魅力的な誘い。それは嫌悪し遠ざけねば容易く屈してしまうほどに僕を惹きつける。何時かふっとその気になるんじゃないかとも思う。要するに常に自殺の手段が提示されているようなものなのだ。近寄ってくれるな。それを視せるな。声に出して耐えて来た。その僕が。少し可笑しい。
安易に真実を求める人々も、そのくだらなさも、そして息をするように加護を用いる自分にも、うんざりとしながら生き続けている僕に、まだここに在り続けたい理由が唐突に出来た。名はクロノ。可笑しな子供がいたものだ。平民で、それも貧民街の袖なしと呼ばれるような階層の女児だ。出自に不相応な知識の数々に異常な頭の回り様。神の加護だと勘違いするのも無理はない。市政官トロイ家でいち早くその才を見出したのも納得。今、クロノが施療院に居るのは少しばかり我が家門の手回しが良かったに過ぎない。クロノはミネルヴァとの付き合い方も瞬く間に学んでしまった。付き合い方どころか「アタシは6才です」世の中に実でありながら実ではないものが存在するのだと示してみせたのだ。
クロノにはミネルヴァの加護でも視えぬ部分がある。あの明らかに異質な知識はその視えぬものに由来していると僕は思う。あれは何だ?見通すことが出来ないだなんて。まるでこの世の理の外にあるような不可解。だが僕はその不可解さよりもクロノがそこからとり出す知識に圧倒された。「塔」の進んだ知識なのか。いや、市政官邸にあった手記から得た知識等というのは口からの出まかせだ。ならば何故こんな子供がそれを知り語るのか。そこを追求するよりも、目の前に出されたものを記録し検証することに僕は夢中になったのだ。それはずっと曇りだった世界が極色彩に息づくような経験だった。
宮城の外れ、刑務での予定は件の予言者の再鑑定とクロノが見つけて来た加護持ちの引き取りになる。サトゥルノとクロノがそれを引き取りに行き、同時に僕が拘留されている予言の巫女とやらを再鑑定する。二手に分かれて向かう直前、クロノが僕を見上げて言った。
「クラテス様。無理させたのは分かってるんだ。でもゼフィロスを助けたかった。有り難う……あ!痛だだだっ!」
サトゥルノに耳を吊り上げられて爪先立ったクロノが
「言葉遣い!クロノ、お前はこちらです」
涙目で連れてゆかれる。今日のクロノは僕と同じ染めない麻の長衣だ。装いはそれなりであるけれど
「いい加減弁えなさい!」
「やだね。弁えてんなら勝負なんかしねえで入墨打たれてるっての。ぁがーっ!!!」
当主と顔を見合わせて失笑。サトゥルノが孫に手を焼く祖父にしか見えない。あれでいてクロノは相手を選ぶ。丁寧に喋ることもできるし、年齢以上の作法も身に付いている。今横にいる当主に対してなどはきちんと振舞えるのだ。あれは僕のための、一切飾らぬあの娘の本音だ。
二人と別れて入った審議室に刑務の官吏に連れて来られたのは女。美しい女だ。紫の髪、愁いを帯びた濃い赤紫の瞳。神を模したような造作と滑らかな肌。悪い扱いは受けてはいなかったのだろう。落ち着いた様子に見えた。僕は今日、この女の軌跡を辿る。女とは二度目だ。前は薬師のメリナと共に来た。あの時は不穏な予言の真偽を問うと言うだけだったから、早かったし、これ程人もいなかった。今回は違う。最初に西都に流布した予言
「西都の王は不義の子によって葬られる」
を精査するのだ。女は予言の加護を持っている。予言は来るべき未来であることは間違いない。予言を受けた宮城はその主が弑される事を恐れ、姦淫法なる法を設けたそうだ。僕には関係がないけれど、クロノは「馬鹿にした話ですよ」凄味のある微笑を浮かべていた。その法の根拠となった予言。今、その予言には疑義が生じている。この予言は受け手が定かではない。それ故に予言そのものを疑う声が上がっているのだ。よって今回確かめねばならぬのは前後の脈絡を聞き逃してはおらぬかと、その予言が誰に対してなされたのかの二点になる。こんな詰まらない依頼でも宮城からのものであるから最終的に主家は受けたろう。が、不平も言わず自らそれを引き受けたのは、クロノがそれを望んだから。クロノの友人を救うための取引条件の一つとしたのだ。それ位は望まず買われてきたあの娘に報いてもいい。
審問が始まる。紫の女は真実のみを語る事を始まりの神に誓った。今回は虚偽の発言があった場合、審問官にもわかるよう僕は右手を上げることになっている。斜め横に紫の女を捉えた。一息で世界の広がりに触れる。僕という枠が撓む。ミネルヴァの加護。
「名を申せ」
「ドゥーラ」
何時だかに誰かに女が名乗るイメージ。それは前にも聞いていたが、僅かに引っ掛かりを覚えた。「君に名をあげよう」ああ。今現在の名乗りがそれというだけか。軽く手をあげると審問官が頷く。
「親がつけた名か?」
「いいえ」
これは真。手を下げる。
「ずっとラミア―と呼ばれておりました」
皆自分の耳を疑って沈黙が降りた。ラミア―は魔物の名だ。半身が蛇で湿原に住まう。女の形で誘惑し人を喰らう。悪夢を視ずに済むようにその眼を抉り出すとも、気に入った者に予言を与えるのだとも言われている。そのような名を子につける親があるだろうか。しかもこれ程美しい女に。だが僕が手をあげることは無い。
「生まれは?」
「わかりません。地面に名前がある事を知ったのはそこを離れてからでした」
真。金色の光の先にある光景。土間の暗く湿ったような住まい。ずっと同じところで暮らしてきた。
「父の名は?」
「わかりません」
真。姿を見かけるのは世話をする女一人。乳母か。女はいつも木札に何かを記していた。紫色の子どもが口にするあれこれを。
「母の名は?」
「名はリヴィエだったと聞きました。物心ついた時には母は既に亡くなっていました」
真。紫の髪の赤子を抱いて涙を落とす女。これも稀に見る美しさだった。
「読み書きは教えて貰いました。神の御業を記した物を読みました」
真。スクロールは神詩。始まりの神の物語。一つしかなかった。だから女はそれを語る。
奥の扉が開く気配に意識がひき戻される。振り返る。サトゥルノとクロノだった。もう一人。クロノの友人だと言う加護持ちを無事引き取ることが出来たらしい。クロノが小さく手を振る。こちらはまだ終わらない。
「お前は何処かの国や都市からこの西都へ送り込まれたのか?」
予言に疑いが出た時、それは他国が西都を混乱させる陰謀だとの憶測まで出た。
「いいえ。誰にも命じられておりません」
真。誰も女に命じない。
「どうやって西都まで来た?」
「歩いて。ここよりずっと北の川を辿ってきました。川が海についてからは南へ」
これも真。雄大な川を眺めながら行く。水を汲みもした。暑かったり寒かったり、行く船を眺める。川は、女がプラタイアを経由して西都に来た事を考えるとドナ川か。不意に耳元で声がした。
「クラテス様、聞こえたら首振って」
ぎょっとする。今の声は何だ?それはクロノの声に違いない。だが、ほかの者には聞こえてはおらぬようだ。当然だ。そんな距離ではない。
「風の加護だよ。そいつは後で」
風の加護?そんな使い方は聞いたことがない。またあの娘は何の気なしに未知の世界を提示する。
「あの女に聞いてくれ。どうやって飯を食って来たのか。あのな、お貴族様は分かんないみたいだけど、何もしないで飯食える筈がない」
そうだ。路銀もなしに旅など出来まい。元々の住まいでも食事や寝床、衣はどうしていたのか、水は誰が汲んでいたのか、便壺は誰が中身を捨てていたのか。「よろしいでしょうか?」発言を求める。
「どのようにして生計を立てていたのでしょう?」
女には生計を立てる、が分らなかったようだ。
「食事を運んでくる者がいました」
その扱われ方には首を傾げたくなるけれど、それなりの身分はあったようだ。紫の女に目を戻し、深く辿る。盆に乗った食事。運んで来る者は後ろ姿であったり、いつの間にか置いてあると言う塩梅。幽閉されていたのか?ただ一人明確な姿。まだ若い男。顔をあわせ言葉を交わす。熱に浮かされたように女を見つめる若者。「一緒に外へ出よう」どう抜け出したのか、世話係の女性はどうしたのか。若者に連れられ夜陰に紛れて育った場所を後にした。野を行き、村を幾つも過ぎ、街へ出た。審問官の一人が問う。
「誰にも命ぜられていないなら、何故、育った場所を離れようと思ったのか」
「夢で見たから」
それは答えなのかと皆訝しんだ。だが、嘘ではない。女はそれを夢で見た。街へ出た自分の姿。
その道中、若者は堪えきれなくなって紫の女に触れた。女の衣に隠された身体を見て若者は悲鳴を上げた。腰から下、腿の中ほどを覆う紫と褐色の斑の鱗。魔物?いや亜人なのか。ああ、ラミア―の呼びはこの所為か。それを遠い所で痛ましく思う。若者は女を置いて逃げた。女は男を待ちも追いもしなかった。また審問官が問う。
「街ではどうやって食べて来たのだ?」
「始まりの神を語ると食べ物を貰える事もある、と夢で見ました」
また夢。
「予言の神の加護があるのなら、どこぞの貴族の庇護を受ける事も出来ただろう?」
女は首を傾げる。急に意識を失う事はこれまでもあった。女にはその間の記憶は無い。だから、倒れても気が付けば起きるだけ。病気かもしれないとは思っていた。
「別の街に居る夢を見たので一所に留まる事はしませんでした」
不随意で、目当ての未来が得られる予言でもない。役に立たぬのだ。女は夢で知り得た事共を占いやお告げと称して金にする能も無かったようだ。この西都でも予言が神の加護だと知っても、誰も女を手に入れようとは思わなかった。そしてまた夢。耳に届いたのはクロノの呟き「喜捨って言ったってすぐに貰えるようになるってのがな…」ちらと振り返れば随分苦々しい顔をしている。納得がいかないらしい。だが、女が言う事は事実だと僕は知っている。
「途中からはパラスが全て整えてくれるようになりました」
クロノの声が耳元で言う。「それってあの信者代表か護衛みたいな男だろ?」金色の光はまた何処かへ飛ぶ。フード付きの外套姿の男。ほかにも同様の男が二人。クロノに頷いて見せる。
「あいつさ、どうやって紫の女を喰わせたんだろ?喜捨集めてるところ見たけど、あれで旅するのは無理があるよ。物を売り買いしてる感じでもないし。貴族や金持ちの酔狂ってのもな……ついでに言えば、あの女とデキてるようにも見えなかったし……」
何故パラスはこの役にも立たぬ女の道行きを整え続けたのか、とクロノは言うのだ。貴族や金持ちというのは無い。他都市への遊学はあっても、街角で神を語るような女に入れ込むのをその家門が許しはしないだろう。家を出て女に従ったのならば資金を送り続ける事もないし、単身の筈だろうから。では何故?そしてどうやって?縦横に広がる金色の糸を辿る。広がりと高さと時間のその先に。
それは最初に辿り着いた街、元居た場所を出てから然程経ってはいない。彼らの目当ては紫の女。初対面ではパラスも連れの男達も武装していた。追手だったのか?軽い衝撃。が、女はパラスを少しも警戒しなかった。それも夢で見ていたから。金色の光景は何時だかの姿。紫の女が口を開く。パラスが応える。
「あなたは私と共に川を下るでしょう」
「川を下って何をする?」
「神と神が与える緑の地を語ります」
夢でそれを見ていたから。
「緑の地……それは良い」
パラスは同行の者たちと話合い、彼らと別れてラミア―に同行を申し出た。パラスの仲間の男二人もまた同行することになった。次から次へと蘇る金色の光は心地よく、審問官の声が随分と遠い。
「パラスとは何処の者か?」
「テーベと言う所から来たと言っておりました」
真。テーベは広大な大森林のほとり、大河ドナを遡った先の街になる。間に幾つもの都や街を挟む遠い地は直接的に西都に関わりはしない。審問官らが額を突き合わせている。
「……テーベですか?プラタイアでは洪水の後、暮らせなくなった領民が随分ドナを遡ったと聞きますな」
「そのほかには……ああ、テーベから大規模な奴隷の買い付けの申入れがあったのは一昨年の事でありましたか?耳にするのはそれ位しか」
「あの時はテーベでは有望な鉱山でも見つけたのではないかと話題になった気がします」
大森林は森人の領域で、ドナの東は少数民族が移動しながら生活する高地になる。テーベの周辺は戦で奴隷を手に入れようにも人的資源に乏しいのだ。その程度の記憶や知識しかない土地。その後、西都では疫病騒ぎなどもあり、離れた地の事など忘れるに任せていた。そのテーベ。
「パラスという者を呼び出す必要があるかもしれません」
この紫の女を捕縛した時、信者らは驚き嘆き宮城の門まで付いてきた。ラミアーがパラスを見たのはそれが最後。この場におらぬ以上は仕方がない。
そして本日の本題に入った。
「ラミアーよ。お前がなした「西都の王は不義の子に葬られる」という予言について述べよ」
西都に入った。「この辺りが南限であろうな」あれは北の大門。ここでも神を語る。希望を語る。夢で見た通り。パラスはラミアーを予言の巫女としてうまく喧伝し、多くの信者を集めていた。彼女の語る緑の地に憧れるものは等しく苦しみの中にあった。ラミアーが語る希望に照らされ、信者は増えたり減ったりしながら彼らは西都に辿り着いた。この街では橋の上で。彼女に傅くのは道中の街や村から彼女を追ってきた人々だ。ラミアーの声に聞き入る人。行きすぎる人。ふと、背負い籠に仕事道具を突っ込んだ男にラミアーの目が留まる。初老の男。
瞬間、背負い籠の男という一点から金の光が四散する。未来。無数の過去と無限の未来が一点に集約されて。光。光。光。輝く。全ての光の中のラミアーと僕の口から同じ言葉が漏れる。
「「……忘却の園に果報の槌音。西都の王はその不義の子によって葬られる」」
僕と女は同じものだから。紫の女の色濃く一際輝く金色が、確かに捉えていた筈の軌跡は消失していた。僕が。女が。あの時の。この先の。数多。時間。全。光。輝く。無限の広がり。審議官らの驚きの表情さえもその欠片の一つ。世界。全ての。当主にサトゥルノ、クロノが傍聴席から飛び出してくる。クロノが一番早い。それも一欠けらの情景。無数の魂のその先。織りなす過去。全。全。全。神よ。光よ。今僕には全てが視えるから。「………ス!」遮るものは無く、風は僕であり、僕は水である。「………テス!」降り注ぐ熱で抱き留める大地。悠久の光り輝く。
「あの風の加護はどうやったのかな?」
思ったのは誰?無限の中の一欠けら。僕は……「視ろ!」不快。全てが…「クラテス!」心地よい揺蕩いに水を注す。何故。「視ろ!ここだ!」何を?「視えないものがある筈だ!」そんな筈はない。全ては僕であり僕は全てなのだから。声に意識を引かれる。邪魔をされる。視えないものなど………
――――空白
「無い」がある事に気付いてしまった。「視えない」が、そこに在る。ああ、僕には視えない。それは子どもの、女児の姿になって。「クラテス!」「クラテス様!」幾つもの声。胸元を掴む小さな染めない麻の長衣。顔中を口にして僕の名を呼ぶクロノ。濃紺の眼差しは意志の塊。荒い息に滂沱の汗。自分もまた。サトゥルノにまた従兄弟の当主、クロノに詰め寄られている自分と、床に崩れ落ちたままの紫の女。目を瞬く。クロノの手から力が抜けた。
「……今、此処に居るんじゃなければ、何も意味がねえよ」
手を離され尻を突いた僕を「クラテス様!」サトゥルノが支えに入る。
「真実なんか分かっていてもいなくても、自分で決めて、自分でケツもちゃ良いだけの話だ」
何一つ思うがままにならぬ中、抗い続ける魂が言った。




