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無碍なる塔の前世持ち    アンチ光属性 底辺からの異世界職業行脚 或いは人牛の件  作者: いちめ
アンチ光属性 格差社会で教育計画 或いはラミア―の件

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19-2 復習 振りかえろう

 想定外の事態はあったが、やる事は全部やる。決めた。初日の今日は潜伏中のゼフィロスの回収までだ。エーギルの家に置いてある私物の回収は最終日にする事にした。そちらのアタシの部屋はそのままになっているそうだから、施療院の使用人部屋(四人部屋だ)よりも安全だろう。ゼフィロスの居場所は探すまでもなく、エーギルに尋ねるとすぐだった。まあ、そんな気はしてたんだけどね。

 富める者の通りの真ん中から少し入った裏路地にその天幕は張られている。まだ陽のある時間帯だから客は居ない。陽が沈み始めるとそういう客が増えるのは始まりの神が最初に作った太陽に恥じるからか。その天幕の内にはこの界隈の娼館が推す娼婦の姿絵がずらりと並んでいる。気品と威厳に満ちた貴族の姿絵とは違う。髪どころか肌も露なそれは艶しく生唾を飲むほどに扇情的。天幕の内には「西都美人案内所」の文字。ここは娼館外で娼婦を斡旋する場なのである。通常娼館では飲食を伴うが、純粋にヤる相手を選ぶだけのシステムを「前」世知識でアタシが作った。コレ、二次元好きにも好評なのよ。

「ムサ爺いるー?」

 板絵芝居の絵描きとしてこき使っているムサ爺は元々ここの姿絵描きである。まだ降りたままの扉代わりの垂れ幕をめくると、案の定ムサ爺は居た。

「おお、クロノか?ワシもう紫ばっかりは嫌じゃ。つまらん」

天幕の内には圧倒されんばかりの量の姿絵が。元々宿なしだったムサ爺は姿絵の収入で部屋ぐらい借りることが出来るのだが、長年の習慣かこの天幕で半野宿生活を続けているのである。ムサ爺の足元に散らばる木札は新作の下絵。これから明るい外へ絵を描きに行く所だったのだろう。ゼフィロスの件を急ぎ板絵芝居にしろと命じた奴だね。ってかエロシーンばっかり力入れてんじゃねえぞ。レベルが段チじゃねえの。

「簡単だよ。寝なきゃ時間は二倍。好きな絵は増えた時間に描けばいい」

夜だから灯なしだけどな。するっとブラック発言が出てくるのは「前」世から。

「ってか、急いで民衆に危機感煽らねえとフリュ姉だってその辺のクソ野郎に好きに揉まれちまうぞ」

「見たい!それは見たいが……」

ムサ爺は西都の女神フリュ姉のヘンタイ的信者なのだ。

「助けないで見てるだけだと店に出禁どころかこの通りにも入れなくなるから。それは兎も角、ゼフィロス借りるぞ」

ムサ爺の奥で金の置物のようにじっとしていた人影が身震いした。腰までの上半身をすっぽりと隠す金のベール。アタシがそれを被っておススメ娼女を案内していた時は全身が隠れた。

「知ってたの?」

驚きの声をあげながら取られたベールの向こうから、隠すのが惜しい程の整った顔。ゼフィロスだ。板絵芝居で親しくなったムサ爺に匿って貰っていたのだ。ってか、新入りの案内係ってゼフィロスかよ。アタシはまたどこかの娼婦の所に居るのかと思っていたけれど。ゼフィロスは施療院から出る事を禁じられていたアタシが突然現れた事に目を瞬いている。これまで捕縛の刑吏は来なかったのに潜伏場所がアタシにばれた事もね。

「言わないだけで、知ってる奴は知ってるんだよ」

何故ならここは富める者の通り。富める者とは黄泉の王。彼が治める通りではこの世の柵など無縁。



「良かったよ、ここで会えて」

 昼下がり、表の通りを行く影もまばら。奥まった裏路地には人の目もない。ムサ爺を送り出したアタシ達は天幕を出て、その陰に寄った。木札や絵の具が入った木箱が幾つか置いてあるのに腰を下ろす。ゼフィロスの右を天幕側にするのは仮に通りすがりが路地を覗き込んでも中身の無い袖が揺れるのを見られぬようにだ。隻腕はそうそうないから警邏に目印として伝達されているだろう。逃亡中のゼフィロスもその辺りは分かっていて金のベールは右肩に掛けたままだ。

言った。

「アタシ、ゼフィロスが追手の刑吏を殺しちまうんじゃないかって冷や冷やしてたんだ」

そこが一番心配だった。

「そんな事出来る訳ないだろ」

ゼフィロスは笑う。荒事とは縁のなさそうな美青年。男とは言え成人したばかりで子どもに近い体格。それも隻腕の彼が。構わずアタシは続けた。

「窃盗は冤罪なんだろうが、逃げるために刑吏を殺せば流石に助けてやれない」

「だから―――」

ゼフィロスがアタシの目に気付いた。冗談で言っているのではないと分かったらしい。そう。多分彼にとって人を害するのはさほど難しい事じゃない。だからこの件は誰にも頼めなかった。ニコリと微笑んで見せる。

「これまでに何人殺した?」

沈黙は肯定だった。別に追い詰める気はない。

「やっちまった理由、聞いていい?」

「……………殺されそうになったから」


ゼフィロスは神に愛された加護持ちだ。


 アタシがそれに気付いたのは板絵芝居で芦原の唄を聴いたから。ゼフィロスの吹く芦原の唄とほかの者が吹いた芦原の唄は同じに聞こえたのだ。そんな筈はない。笛には片手では塞ぐことのできない穴がある。そう思ってゼフィロスの代わりの笛吹きにも、元々の曲を知っているというメリナにも尋ねた。だが、ゼフィロスがアタシに聴かせてくれた芦原の唄は正しい旋律だったのだ。

 それはどうやって?確認したくてアタシは予言の巫女を見に行った。予言の巫女の信者だった彼の母を、待ち伏せているゼフィロスに会いに。ゼフィロスには会えずに予言とか要らんもの貰っちまったけど。

「神に愛されてるなんて気付かなかったよ。産まれた時からじゃないんだね」

 なぜ人殺しなんか、は死んだ男の相手を考えれば納得だった。皆、ゼフィロスを住まわせ食わせていた娼女達だったのだ。間男に怒り狂って締め上げようとしたのだろうが、相手は神にも愛されていたという訳だ。

「……殺されそうになって、気が付いたら死んでた」

二人目は殴るくらいだったかもしれないけどと呟いた。

ゼフィロスには風の加護がある。

大気を自在に操れるのならば、笛の穴を押さえる事も大気の塊で押し潰すこともできる。

「アウロスは盗んじゃいないんだろ?」

 ダブルリードの笛なんか盗まずともゼフィロスは食って行ける。飼ってくれる女はまだ居そうだし。観念したゼフィロスは素直に頷いた。現在、ゼフィロスが窃盗で追われているのは冤罪だ。そんな無体が通るのは身分差がある所為。ならばより高位の貴族家に身を寄せればいい。それがアタシの計画だ。ゼフィロスが加護持ちであることはその取引材料になる。

「で、何人?」

実はこれ結構重要だったりする。

「……3人」

掠れる声で。アタシは胸をなでおろす。つまり、ゼフィロスが手に掛けたのは港側で死んでいた者だけだ。状況を聞けばどれも正当防衛だと言えなくもない。ゼフィロスは街道市の真ん中に遺体を放り出してゆくような事をした訳ではないのだ。流石に猟奇殺人とか殺人嗜好は放置できないからね。

「これからどうするのか考えてるか?」

「何も」

だよね。傍から見ても全くの無計画。この都で彼の母を待つことしか考えてなさそうだもの。提案した。

「貴族家に仕える気があるなら冤罪は晴らせる。神の加護を持った者として暮らしてゆける」

「人殺しなんだよ?」

目を剥くゼフィロスにアタシは笑った。

「女を殴るクソ野郎が少しばかり減ろうが気にする奴は居ないよ。そいつを大事に思っている奴が居るのなら、それはそいつとゼフィロスの間の問題だろう。部外者には関係ないね」

黙っていても問題は無い。法が救う者ばかりではないのだから。「前」世の例えなら、年間交通事故死者が1万人いるのなら、社会には毎年1万人の殺人者が増えている。そんなもんよ。だが、ゼフィロスはまだ迷っているようだった。アタシは待った。

「前にも言ったけど……」

 ゼフィロスは彼の母を追って西都に入った。彼を捨てた母を。だからゼフィロスは追われても西都を出ようとしなかった。もう一度顔をあわせて後悔してるって言わせたい?幸せではないのを確かめて留飲を下げたい?仮に彼の母がこの都を出た場合、貴族家に仕えていれば追うことが出来ない。そこで迷ってしまうのだろうか。アタシは黙って待った。


 と、目を遣っていた裏通り側を歩いて行く人に気付いた。

「父さん?」

紺の髪にアタシと同じ紺の目。竜車の御者をやっている大きな身体。思わず声にしてしまったのはつい最近死んだのかもって思った所為だ。あれは勘違いであったけれども、動揺はした。そして、知らぬ振りをするにはお互い目が合ってしまっていた。

 父さんには連れがいた。ついさっきまでフリュ姉と居たからかもしれないがパッとしない女だ。その風貌、雰囲気は明らかに娼婦。だが、アタシはその女を知らない。アタシはここの案内所の姿絵を描かせるために、ムサ爺と共に辺りの娼館を一通り回っている。アタシが施療院へ移った間に入った新人ではないだろう。それにしては板につき過ぎている。つまり彼女は娼館を通さずに客をとる私娼か。交際しているのか、今日彼女を買っただけなのか、どちらにしてもやる事は同じ。西都で遊ぶならこの界隈なのだ。父さんが仕事もせずにこんな時間に居られるのは、アタシの代金を貰っているから。クソったれ。「前」世も「今」世もろくでもねえ。

 娼女を路地の入口に待たせて父さんが歩み寄って来た。酒の匂い。太陽には恥じないんだね。

「クロノか。施療院に行ったって聞いたんだが」

「間違ってないよ」

ああ、そう言えば随分と久しぶりだ。最後に父さんとあったのは―――去年。アタシはあなた方の子ではなく、売られた先のエリトゥラの子だと宣言した時だ。今のアタシは施療院の子。だからか、父さんはアタシの水色の頭に触れようとして伸ばした腕を途中で退いた。そうしてゼフィロスとアタシを交互に見やる。ふいっと目を逸らせた。ゼフィロスは居ない者として扱う事にしたらしい。ここで顔を合わせねば次があるかどうかも分からないから。父さんが言った。

「母さんはもう駄目だ」

 そこはアタシも同意する。撲っても蹴っても人は変わらない。ここに居るのは妻を変えることが出来なかった男。どこにでもいるような普通の男だった。

「もっと稼いで何とかしようとしたんだ」

 そいつはどうかな。父さんと娼女が歩いてきた方角にはエリトゥラとは別の賭場があるのをアタシは知っている。普通のつまらない男で、ついに父親にはなれなかった男だ。子を成すだけなら犬にも猫にも出来る。ヒトの親になるためには何が必要なんだろうね。「前」も「今」もそう思う。もしもアタシでは無かったら、この男は人の親になれたのだろうか。同じ色の瞳で見つめ合う。

「俺も幸せになる権利があると思うんだ」

 間違いなくそれは在るのだろう。この世の皆に。だけど、親に売られたアタシにもそれがあるとは認めてはくれないんだな、この男は。人には言い訳が出来る者とそれが許されない者がいる。どちらが幸せなのかアタシには解らない。結局、アタシは最初の二言しか喋ることが出来なかった。

「元気でな」

さようなら。


 ため息を一つ。

父さんの背中が消えてからゼフィロスが声をかけて来た。

「クロノ……」

「待たせたね。気を使ってくれなくていいよ」

涙とかでないから。腹も立ちやしない。

「で、ゼフィロスはどうするんだって話よ」

「………行く。貴族家の使用人になる」

さっきよりうんと短く迷ってからゼフィロスは答えた。そうするといいよ、ゼフィロス。罪を着せられて逃げ回るよりもその方が少しはましに暮らしていけると思う。ゼフィロスはアタシと父さんのやり取りをみて、自分を捨てた親を追う事の馬鹿馬鹿しさに気付いたのかもしれない。だとしたら、あのクソ親も役に立ったとは言える。

「ここより窮屈だとは思うけど、加護持ちは冤罪で失うには惜しいからね」

 ゼフィロスがあんまり気拙そうだから言ってあげた。アタシの思うところ、アタシの目指すところを。

「あのさ、一番の勝ちは自分が幸せになる事だと思うよ。そういう全部と関係がない所で」

アタシも、ゼフィロスも。「ざまぁ」はこちらが地獄に居ては出来ないんだわ。二人で同時に息をついて、同時に力を抜いた。アタシ達は少し肩に力が入り過ぎてるのかもしれないね。

 ここで終わればもっと楽に行ったのに。そういう時は大抵ケチがつく。


 と、そこへバラバラッと皮鎧の一団が路地の入口に飛び込んできた。はっと振り返れば通りの側からも。前と後ろを塞がれた。バッと首を巡らせたゼフィロスが身構える。

「駄目だ!逃げるな!」

金のベールごとゼフィロスの袖を掴んでアタシは叫んだ。

「絶対に抵抗するな!」

ゼフィロスが信じられないという目でアタシから身を引く。アタシが刑吏を呼んだと疑っている。違う。ハッとした。恐らくアタシの父さんだ。側で話をするうちにアタシの横に居る青年が隻腕だと気付いた。ならばそれはやはりアタシの所為。クソったれ!

「必ず助ける!いいか、使うな!」

ゼフィロスの服を掴んで喚く。駆け込んできた刑吏がアタシごとゼフィロスを押し潰す。変な声が出て「クロノ!」目から火花が出た。

「駄目だ!」

這いつくばって湧く唾を垂れながら吐き出しだ。抵抗するな。加護の力を使ってはならない。先に加護持ちだとばれれば交渉できなくなる。瞬く間にゼフィロスが縛り上げられた。蹴って殴られた上で。半分意識を失って鼻血を垂れたゼフィロスはもう抵抗していなかった。

「このガキどうしますか?」

アタシは地べたから目を上げる。この世で一番低い所から。

「この辺の袖なしなんか放っておけ」

アタシは行きがけの駄賃に腹を蹴り上げられて再び地面に転がった。血の味のする唾を吐きながら起き上がった時、陽の傾きかけた裏路地には誰も居なかった。毛の逆立ちそうな怒りがフーッ、フーッと息になって漏れる。勝手に滲んだ涙を拭う。アタシの所為でゼフィロスは捕縛された。その代償にしてはこの痛みは安すぎる。





 あれはアタシも弟もまだ半袖だったから秋もはじめの頃、土曜だか日曜だかの午後だった。遅く起きてきた父はゴルフの準備を始めた。打ちっ放しへ練習に行くのだ。

「お父さん、どこへ行くの?」

弟は小学校へ上がっていただろうかという年齢だった。学校の友人はあそこへ出掛けた、これを見たという話をするが、ウチは家族で出かけるような事は無かった。

「ゴルフの練習に行くだけだよ」

ゴルフは仕事に必須な社交スキル、そんな時代だった。

「いいな!僕も行きたい!」

父は笑った。

「面白くないぞ」

そういうものだという事をアタシも弟も知らなかった。母が言った。

「二人で連れて行ってもらえば?」

「行く!行く!」

弟は大喜びで、父はそれに押し切られる形でそうなった。アタシもついて行ったのは、ジュースくらい買って貰えるかもしれないと意地汚い事を考えたからだろう。

 父の運転する車で行った練習場はアタシ達の住む団地から随分離れた場所だった。大きな練習場で打ちっ放しのブースが二階建てになっている。練習をしているお父さん達でいっぱいだった。父もその一人になった。ブースの後ろの通路件休憩スペースにはベンチや自動販売機が並んでいる。練習場とはこういうものかと納得した後は、通路を行ったり来たりして過ごした。確かに面白くなかった。アタシは弟を大人しくさせておくことが出来なくなって、大人の男の人達に遠慮しながら座っているのも苦になった。一度休憩に出て来た父に言った。

「あの野原で遊んできてもいい?」

 打ちっ放しのネットの向こうにはだだっ広い野っ原が広がっていた。田舎で、何もない所に一本道が伸びて行く様な。恐ろしく遠くに作業小屋とかそういう建物がぽつりぽつりと見える。同じ形の建物が延々と続く団地とは違う景色の場所だった。

「父さんが迎えに行くまでそこに居られるならいいぞ。絶対に何処かへ行かないって約束できるなら」

アタシと弟は約束した。ネットの側は危ないから練習場からは距離をとる様にとも言われた。

 膝丈ほどの草が茂る野っ原にはあちらこちらにネットを超えて来たゴルフボールが落ちていた。アタシと弟はそこでバッタを追いかけて過ごした。吃驚するほど大きなバッタで、あれを捕まえてみたいと思ったのだ。どれほど追いかけても、今度こそ上手くいったと思ってもバッタは捕まらなかった。どれほどそうしていただろう。疲れて飽きてきた弟が練習場へ戻ろうと言った。そう言えば陽が傾きかけている。父も練習を終えた頃かもしれない。アタシ達は練習場へ戻った。ところが父は練習場に居なかったのだ。

 一階も二階もブースの一つ一つを覗き込み、通路を休憩スペースを歩き回った。沢山大人の男の人が居るのに、どれも父ではなかった。アタシと弟は混乱した。置いて行かれたのだろうか?何故?そうだ。待っていなさいと言われた野っ原に戻ろう。野っ原に戻ったけれどもやはり父は居なかった。ほかの建物も道もないのだ。行き違いになる筈がない。アタシ達は仕方なくまたバッタを追いかけることを始めた。バッタなどもう欲しくは無かったのに。

 陽が暮れ始めると気温が急に落ち始めた。半袖に膝が出た格好では寒い。考える内にさっきのは自分達の見間違えだったかもしれない、そう思えて来た。アタシ達が見つけられなかっただけで、父はあの場所に居たのだと。再び練習場に戻ったアタシ達は一度目よりも丁寧に見て回った。ブース、通路、トイレ、コントのように行き違いにならぬよう二手に分かれてぐるっと。やはり父は居なかった。アタシ達は待っていると約束した野っ原に戻った。

 残照に野っ原は茜色に染まってトンボが帰る。腕を摩ったくらいではやわらげることが出来ぬ程冷えて来た。練習場に照明が灯る。野っ原の一本道をすうっと近付いてきた車が止まってクラクションを鳴らした。

「もう暗くなるよ。家まで送ってあげようか?」

父ではなかった。練習場の周りには家は無い。お金は一円も持っていない。携帯電話を子供が持つような時代じゃなかった。が、アタシはそれを断った。

「お父さんが待っていなさいって言ったから」

相手は知らないオジサンだ。知らない人にはついて行ってはいけないと言われている。ヘンシツシャかもしれない。オジサンが良い人だったとしても、勝手に帰ってしまえば父はアタシ達を探し回る事になってしまう。アタシは頷かなかった。

「迎えが来るんだね?」

その車が行ってしまった後で、「乗せて貰えば良かったとに」恨めしそうに言う弟をアタシは無視した。

 とっぷりと暮れて練習場だけが煌々と照らされていた。練習をする人がまだまだいる。あのどれかが父なのかもしれない。そうでないのかもしれない。闇に沈んだ野っ原の中に居ては見つけられなくなるから、アタシ達は道路脇の草むらに並んで蹲った。そんな所に子供がいると思わないのだろう。時折車のライトが結構なスピードで行きすぎる。膝を腹に押し付けても、両腕で抱えても寒くて身体ががくがく揺れた。痛むほどにお腹が空いてもアタシ達は待ち続けた。父かもしれないと車のライトが見えるたびに立ち上がる。それすらも止めて、言葉も無くなってから父は迎えに現れた。

 夕飯時も随分と過ぎて帰り、その顛末を母に話した。

「探しに行ったけど居なかった」

アタシは母に罵倒された。

「何のためにアンタをついて行かせたと思ってるのよ!」

馬鹿だったアタシは漸くそこで理解した。

 父はアタシ達を野っ原に出した後、その時につき合っていた女の人と逢引をしていたのだ。その日、父が愛人の所へ行くのだろうと考えた母は、その邪魔をするためにアタシ達を父と一緒に送り出したのだ。父と女の二人は一緒にゴルフの練習をしたのだろうか。三時間?四時間?そんなものじゃなかった。それほど長くクラブを振り続ける事など出来る筈がない。食事をしたのかもしれない。家に帰った父は夕飯を掻き込むアタシ達とは違って飯は食わずに酒を飲んでいたから。その後はラブホテルに行ったのだろうか。それとも愛人の家で過ごしたのか。お腹がいっぱいで、暖かく、性欲も満たし、心地良い気分で。

「練習場におったのに、見つけられんかったっちゃろ」

 父には軽く流されただけだった。そして父は酷く機嫌が良かった。逢引の邪魔をしようとした母を出し抜いてやったのがよほど嬉しく楽しかったのだろう。

 アタシは暫くの間、母に詰られ続けた。アタシがつけ馬の役目すら果たさなかった事を。母は可哀相だと弟を詰る事は無かった。だから、弟は迎えが遅れただけだとずっと信じていた。あの日、父も母も、子供をどこかへ連れて行ってあげたい、楽しい経験をさせてあげたい、一緒に過ごしたい、そうは思っていなかった事を弟は知らない。

 アタシは茜色の野っ原を見ると今でもあの日を思い出す。酷く寒くて途方に暮れてどうしようもなかったあの日が蘇る。時間が経った後もアタシはそれを父に尋ねることが出来なかった。それが父の中で楽しかった記憶になっているのが怖くて。

 今、父に聞いてみたい。

お父さん、あの日の事を思い出すことがありますか?



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