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無碍なる塔の前世持ち    アンチ光属性 底辺からの異世界職業行脚 或いは人牛の件  作者: いちめ
アンチ光属性 格差社会で教育計画 或いはラミア―の件

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10 目標を定めよう

 背の低い生垣で囲われた結構な敷地は、西都でも上街の貴族街に近い場所にある。幾つもある門のうちでも正門には左右に医神と薬神の紋。これは何時何処で誰が刻んだか分からぬ神の標ではなく、ここが施療院であることを知らしめるために人の手で刻まれたものだ。一〇万都市西都の医療を担うのがこの施療院。広大な敷地の内には二階建ての建物が三棟ある。その一つが薬院だ。薬神の加護を持つ薬師の元で調剤にあたる者、原料となる薬種を仕分ける者、保存加工する者と忙しく動いている。作成した薬の類を貯蔵する蔵や、幾つもある薬園の管理もこの薬院が担当する。

 もう一つは治療院。西都の一般市民に馴染み深いのがここだ。治癒の加護を持つ治癒師が常駐している。運び込まれても回復に時間のかかる者や、投薬の経過観察が必要になる者が入院する設備もある。夜間は職員が帰宅してしまう薬院とは違って住込みの職員も下働きの者も多いのが治療院だ。が、死に瀕する大怪我や大病など余程の事が無ければ庶民は治癒師には頼らない。有体に言えば、お高いのである。この治癒院に窓口を置いている薬院から薬を購入する方が一般的だ。ちょっとした熱冷ましや傷薬、虫下しなんかは、効果に保証はないが街道市で売られている自家薬で十分。だからこそこの人口でこの程度の規模の施療院で済む。

 最後の一棟は職員寮を兼ねた研究棟になる。アタシが居るのはここ。クロノです。施療院で起き伏しすることになりました。毎年引越してるって?敷金礼金、荷物送る費用で引越貧乏って訳じゃないから良いんですけど……良くねえよ!ふーざーけーんーなー!また身一つで売られてるじゃんよ!しかも市政官邸の仕事は挨拶も引き継ぎもなしでトンだ形。信用無くすどころか極限マイナスである。あ!アステアスの飲食代の経費精算してねえ分がある。クッソ。いや、そうじゃない。信用がどうとか言うのは問題ではないのだ。

 研究棟は屋根裏が使用人部屋になっている。四人部屋の一角がアタシの場所だが新入りなのでまだ皆が寝ている内に起きる。アタシ以外は十代後半から二十代前半の姉様方だ。結婚している人は通いだから皆独身だな。研究棟の掃除洗濯炊事が主な仕事で人手が足りない時は他の棟の応援にも入るベテラン達。そこへ役に立たなそうな6才児が連れて来られたのだから彼女達も驚いただろう。さらにアタシの担当部署は決まっていて、ほかの貴族家から買われて来たと言うと、「やっぱり…」「…子供だからなのね」痛ましいものを見る目になった。やっぱりって何なんだよ。皆、幼女趣味のヘンタイが居るって思ってるんじゃん。マジで勘弁して欲しい。貴族のあれこれに関わりたくないのは分かるが、「辛い事が有ったら相談していいのよ」あー、代わってはくれないのね。

 アタシは寝ていたままの胴着一枚。長衣は敢えて着ない袖なしの姿だ。藍染の長衣は「これは市政官邸の服なので返却しないといけないかもしれない」畳んで置いてある。暗にここでは服を貰ってないよ、を示しておく。というよりも、施療院では最年少の見習いでも13才。染めない亜麻布の長衣と髪布が支給されるが、一番小さい物でもアタシには大きすぎたのだ。

 使用人部屋の便壺を溜め桶まで捨てに行って、洗ってある壺を代わりに貰ってくる。これだけ大きな施設になると定期的に溜め桶ごと回収して街の外へ運ぶのだそうだ。それが終わったら水浴び。身綺麗にするように言われてるからね。何のためって?……ここが施療院だから、って事にしておけよ。ほかの理由は考えるんじゃねえ。水道枡の水は川から地中を巡らせた水道を通ってくるけれど、この季節はまだそこそこ冷たい。くっそ、浴場に行きてえ。が、仕方ない。フリュ姉に貰った櫛は持ち歩いていてよかった。チャチャッと洗って髪も梳く。で、使用人用の食堂で朝食を済ませたら研究棟の院長室へ。

「おはようございまーす」

「うん。お早う」

 既に執務机についているのは青髪の壮年である。アタシのような薄水色ではなく、矢車菊の青は研究棟の院長のクラテス。ヘンタイ疑惑の主はこいつですよ、こいつ。アタシはこの院長室の小間使いという事になっているが、それは建前。勿論、噂の犯罪でもない。ここでのアタシの本当の仕事は市政官邸の情報をリークする事なのだ。そんなの漏洩したら拙いんじゃないって?大丈夫大丈夫。その辺はちょろっと作っておいた。クラテス及びティタ家に渡すのは市政官邸の情報ではない。アタシのイージーな「前」世知識なのだから。



 門から玄関までの間で三人に一人が行き倒れるね、というお屋敷がティタ家の本邸である。ディオやアステアスと別れ、街中で竜車に乗せられてそのまま連れて来られた。建物自体は市政官邸と変わらぬけれど、市政官邸が行政部分を含んでいることを考えると相当でかい。儲かってやがんな。西都の医療を握ってますもんね等と心中皮肉を垂れながら通されたのはティタ家の当主の部屋だった。

「サトゥルノでございます」

「入れ」

 アタシを引き取りに来たのはティタ家の家令でサトゥルノ。彼が門から出した伝令とのやり取りで知った。アタシは高速で思考を巡らせながら、一つも見落としが無いように周囲を観察している。アタシという人間の権利はこの家に買われてしまった。そこはもうどうしようもない。ならばその次。これから何を目標にするのか、そのために如何に振舞うか、だ。いつだってアタシの目標は変わらない。

 何者にも妨げられない安穏な生活。

たったそれだけ。上下水道があれば尚良し。ってか、おかしくね?国盗って贅沢三昧したいとか、○○王になる!とか逆ハー狙いマスとか、そんなスゲー目標じゃないんですよ?フツーを手に入れるためにここまで努力せにゃならんって…いや、脱線。現状から言えば、

 まずは自分を買い戻す

だな。そのために金が必要になる。新生活資金もね。ならば金を稼ぐ時間と身体的自由、資産を保有する権利が必要になるのだ。その上、成人である13才までは自由になってはならないという縛りもある。自動的に親に権利が戻ってしまうからだ。二度も三度も売られちゃたまらない。

そこまではエリトゥラ商会に居た時と同じだ。少なくとも娼館の三階で起き伏ししていた時にはその条件をクリアしていた。貞操の危機は何度かあったが、あれ?ここでもそれってあるじゃんね?……気を取り直そうか。要するにアタシが今やるべきこととは

新しい労働条件を有利に纏める

事である。

「畏まれ」

 豪奢な部屋の戸口のすぐで両の膝を揃えて跪く。手は握り合わせて膝へ。頭は垂れる。これが通常の貴族に呼び出された平民の礼だ。市政官邸の在り方の方が風変わりだった。

「先に話のありましたクロノでございます。親御から引き取ってまいりました」

サトゥルノが契約書類を渡している。アタシに発言権は無い。アタシを観察する気配がする。貴族なんかどこでも大差無いが、同じ都合を押し付けるのでも市政官邸ではアタシの要望も考慮してもらえた。ここでは親から買い上げた経緯説明も無ければ、アタシに意志がある事すら念頭にないのが明らかだ。正直に言うわ。こいつらクソ。ならばその方向性は決まっている訳で。俯いたアタシは―――スタンバイOK。

「小さいな。顔を上げよ」

 おずおずと顔を上げる。見開いた眼は二割マシマシ。焦点をぼかすと黒目がちになる。眉は寄せて眦の下に力を入れるとウルウルしちゃうんだな。これが親に売られたばかりの幼気な少女よ。身分という認識阻害はかかっても、生物的に幼く弱く愛らしいものには庇護欲をそそられてしまうもの。状況把握と有利な条件を引き出すためならそのくらいはやって見せますとも。ほら、「可哀想」に思っていいんだよ。

「して、どのような加護を持っている?」

アタシは困った顔をサトゥルノに向けた。直答は許されていないから家令に答えるのだ。

「……あ、あの…アタシ、神様の加護は持ってないです…」

キョドキョドと訴える。そんな事実はない。加護が有ったらそもそもこんな苦労してねえの。さくっと逃げてんだろがよ!が、彼らがアタシに神の加護があると思って親から買ったのは予想していた。親にも確認はしただろう。でもさ、無いとは明言しなかっただろうね。その方が高く売れるから。ってか、その程度の手に引っ掛かるとかバッカじゃねえの?当主と家令は顔を見合わせる。お前らが勝手に勘違いしたせいでこっちは人生設計白紙になってるんじゃ!そこんトコ分かってんのかよ。って、脳内だけの自由発言なんだけどな。表向きは従順一択。

「市政官邸で厚遇されていたそうだな」

 まあ、その事も判断材料の一つにはなっていたのだろう。だから、その辺りは道々どう答えるか考えて来た。

神の加護がないのに市政官邸に雇われた経緯。

それから加護が無くてもこの先暫くは無下にされない理由。

尚且つ、アタシが将来自由になるために恒久的に確保したいと思わせない条件。

そいつを捻り出してきた。さあ、6才っぽく行こう。

「えっと…アタシ、算術が得意で、街道市でリビュート様に拾ってもらって、もっと勉強したら徴税士にしてもらえるって……。若様と一緒に勉強させて貰ったり、学舎にも行かせてもらいました」

で、目を潤ませる。「リビュート?」「確かアゲリオス殿の三男が市井に下ったとか」そうそう。平民にしては明るい未来があったのにってアピールしておくわ。ごしごしっと目尻を拳骨で擦る。あーあ、泣ぁかせた。平民だけど幼気で健気で可愛らしい女の子を泣かせたー。

「で、でもっ、アタシ売られちゃったから……もう徴税士にはなれないの?」

ちょっと悪いことしちゃったかな、くらい思えよ!クソがぁ!

 んが!アタシのプリティな演技を遮るノック音。いいトコなんじゃ、邪魔すんじゃねえ。

「失礼します。お呼びとうかがいまして」

入室して来た女を見て

(!)

この状況が腑に落ちた。染めない亜麻布の長衣に髪布の中年女。「前」世の医療関係者を彷彿とさせるその形は施療院の薬師や治癒師のそれだ。

(「まさかあなた、医神の加護が……」)

脳裏に甦る何時ぞやの台詞。おーまーえーかー。顔は朧で覚えてはいないが、アタシは以前薬師の前で神の加護がある「振り」をしたことがある。

「この子です!間違いありません」

それが薬師、治癒師を多く輩出するティタ家の関係者だった、という訳だ。あー、ティタ家がアタシを加護持ちだと誤認したのはその所為か。原因の一端はアタシじゃん……。

「だが、この者には加護は無いそうだぞ」

「そんな筈はありません。この子の言う通り辺境の病も瘧も寄生虫が原因だったのですよ」

そう。原因不明の病として西都を混乱させたそれは、市政官邸の働きで終息した。混乱が長引くと困るアタシが動いたから。その時アタシは「前」世で聞き知った知識をこの薬師の女にも提示している。

「どういうことだ?」

説明せよとの言に我に返る。

「……市政官邸ではアタシ、好きに書物に触れて良かったの。そこに書いてあった」

咄嗟に現在ソーシャルエンジニアリング中のキャラ的に矛盾が無かろうと言う所をつくる。「前」世知識ではなく、あくまで超文明都市「塔」の知識という事にしておこう。っぶねー、危うく素に戻る所だったぜ。6才よ、6才。

「…書物」

「難しいのじゃなくて、何処に行ったとか、見たとか書いてあるのが面白くて…病気の話もそこに書いてあって…」

公式物は駄目だな。後で確認されてもそんな物自体がない。今回の件でしてやられたトロイ家に在りそうで、且つ確認は出来ないもの。私的な手記の類をイメージする。

「例えば?」

「瘧はキナの樹液が薬になるって。でも、読んだだけだからアタシはキナの木が分らない」

 これは「前」世知識。瘧は「前」でいうマラリアの事だ。キナの樹液から作るキニーネはマラリア等の薬だった。こちらで何と呼ばれているか知らないが、鎖国中の「塔」での呼び名など確かめようがない。つまりその知識は十分に取引材料になるのだ。三人が顔を見合わせる。「塔について書かれたもののようですな」「あれは報告がなされるでしょう?斯様な内容は見ておりませんよ」「日記や忘備録の類では?」ふふ。好きに想像してくれたまえ。アタシは困った顔で三人を見る。

「アタシ、加護持ちじゃなかったから市政官邸に戻れるの?徴税士になれる?」

「いや、お前は既にティタ家のものである」

ぬうん。そこまで甘くは無いな。「う、売られちゃったから……」もう一回やっとくか?

「他にも何が書かれていたか覚えているか?」

 そう来るな、とは思っていた。

「少し」

問題はその先。思い出せる限りの「前」世知識が尽きてしまったらアタシはどうなるだろう。一生ティタ家の下働きなら上々で、最悪領地に送られて農奴。いや、その頃には年頃で違う使い方をされる可能性も捨てきれない。身分社会で貴族家に権利を握られると言うのはそういう事だ。だからこそ自分を買い戻さねばならない。

当主が言った。

「それらをすべて報告させよ。施療院に預ける」

医療系の「前」世知識の所為だろう。

「アタシ、施療院の下働きになるの?奴隷の入れ墨打たれちゃうの?」

サトゥルノに縋る目を向ける。そこ重要。娼館の小女が心配していたそれ。入れ墨のあるなしは将来に渡り影響する。

「それについてはまた考える。ただし施療院から出てはならない」

逃げるようなら入れ墨を打つ、と。

(……参ったね)

労働条件の詳細もこれからになる。その上、金策しようにも外出禁止では出来ることが限られてしまう。第一ラウンドはギリ惜敗。

「いつかアタシ自分を買い戻せますか?」

「励めばそのような事もあるだろう」

希望の欠片はそれを確認できたことだけ。


 ついでにティタ家が払ったアタシ自身の金額も確認はしておいた。エリトゥラ商会で質草だったアタシの値段の五割増し。その差額は家族の懐に入ったのだろう。これまでも貯金はしてきたが(エーギル宅に置いてきてしまった)、アタシの借金返済の道のりはさらに長くなった事になる。「今」世奴隷が年季を勤め上げたり、金を貯めて自分を買って自由人に戻る事はなくもない。市政官邸の家令ベルティナスも元は奴隷だ。ただし恐ろしく時間がかかる。そんな事に人生を費やしたくなければ、早くに金を融通しろって事。

(どうすっかね……)

で、親に売られて可哀そうな少女としてべそべそぐしぐし鼻をすすりながら(ウソ)、今度は薬師の女に施療院へ連れて来られたって訳。彼女は加護持ちなのだから貴族の筈だが、例のソシャ演の効果でアタシに同情的だった。

「あなたを預ける先は子供好きの方だから大丈夫よ」

それがもう一つの意味だったらメッチャ恨むからな。ともあれ、泣いて(ウソ)余計なボロを出さずに済んだし、子供好きとか言う話が本当ならば、キャラ的にはイケる筈である。第二ラウンドのゴング。施療院は研究棟の院長室だというそこへ。頑張れ、アタシ。

「薬師のメリナでございます」

 悲しみに耐え、大人しく従う少女として舞台へ上がる。院長室だというそこには壮年というには若さの残る顔をした青髪が一人いた。青は青でも矢車菊の青。これがアタシの新しい職場。長がつくお人なのだろうに雑然と物が並んだ埃っぽい部屋だった。研究棟というのは実際に何をやっているのか知らないが、アタシはここで「前」世知識を小出しにすれば良い筈だ。

(その条件を何とか上手く)

院長であろう青髪がチラとこちらに視線を寄こした。と、書類を見ていた険しい顔が崩れて、茫洋として穏やかなそれになる。が、


違和感を感じた。


何故かゾワリと総毛立つ。目の前の男の気配が薄れるというか、彼が背景の一部になってしまったかのような、何とも表現のしようがない感覚。

(……何?)

幼気なアタシに絆されたのか、いや、そんなものじゃない。

と、

「あー、ヤダヤダ。そんなものここに連れて来ないでよ」

言われた。そんなもの、はアタシ。袖なしのアタシは蔑まれることなど珍しくも無い。が、挨拶すらなしの全否定には面食らった。子供好きって話はどうした?平民だから駄目なのか。その青髪は吐いた言葉と見た目が解離した不可思議な表情だ。何故か薬師の女は気にとめず続ける。

「辺境の病の折に話しておりました子供です」

「そんなのどうでもいいって。胸くそ悪い」

アタシに対する本気の嫌悪。当の青髪はぼやけたままの表情で、その口だけがアタシを殴りつける。

(まるで)

何かが憑依したかのよう。このアタシが毒気を抜かれた。条件交渉も何もない。

「残念ながら神の加護はないそうですが、他にも見知った事があるとの事で聴取せよとの指示が出ました」

加護なんかねえよ。

「加護がないのは本当だね」

(?)

男の合の手に戸惑う。

「市政官邸で「塔」を来訪した者の手記を目にしたそうです」

そいつは「前」世の記憶だけどね。

「それは事実じゃない」

(は?)

またの合の手に焦った。何だこれ?薬師の女がアタシを振り返る。その目に疑念が浮かんでいる。さっきまでアタシを欠片も疑っていなかったのに何故?これまで意図せぬ限り、このキャラがメイクであるとばれた事は無いというのに。彼女がこの青髪の言葉をそのままに受け入れる理由が分からない。

「で、では、辺境の病が寄生虫だと知っていたのは……」

それは「前」世知識による推論だけど、確信に近い物はあった。

「それは本当」

呆然。青髪はまるでウソ発見器のように、アタシの真偽を当てる。「前」世でいう心理学的スキル?まさか、本当に心の内が判るってことは……?

「この子が有用な知識を持っているのは間違いありませんね?」

(………)

「ああ。でも僕はヤダよ。反吐が出そうだ。薄汚い虚飾と取り繕いの相手なんか」

 そう言ったところで唐突に陽炎のような雰囲気が霧散した。世界が再び色づく。

(何だ、これ……?)

理解の範疇を越える何かが起こっている。

そして、一言も発せぬままアタシはこの男に完全に拒否されてしまっていた。この有様でアタシに有利な労働条件なんか得られるのか?アタシは自分のこの先をこの手で掴むことが出来るのか。ここからどうすれば良いのだろう。

 薬師の女がアタシに告げた。

「クラテス様はミネルヴァの加護をお持ちなのですよ。嘘をつくことは出来ません」

それがアタシが施療院に預けられた理由だった。ミネルヴァ、全てを見通す目の神様。アタシは忘れていた。ここは施療院。西都の内で宮城に次いで最も神の加護持ちが多い場所であるという事を。




 可笑しな写真が残っている。

それはアタシの幼稚園の参観日のものだ。前列に園児が小さな椅子に掛けて並び、後列に保護者。保護者に連れられて来た園児の兄弟たちもちらほらと映っている。アタシの横には母が連れてきた弟が座る。幼い姉弟が不自然に顔をくっつけた写真だ。何故、そんな写真になったのかと言うと、その直前に

「まあ!そっくりね!」

アタシと弟がとても似ていると来ていたママたちの間で話題になったのだ。面白がった大人に隣の席を用意されたのだったか。確かに写真で見る姉弟は瓜二つだ。

 その弟は父の小さな頃に良く似ていると言われていた。ところがアタシは父にも母にも似ていない、そういう事になっていた。可笑しな話である。本当は弟も両親に似ていないのか、アタシも父方の顔の系列なのか、事実はどちらかでしかない。恐らく婚前交渉で生まれたアタシを使った、父による嫌がらせの類だったのだろう。だからあの時、母は嬉しそうだった。アタシは楽しそうな大人達に乗せられた。いや、アタシが調子に乗ったのだ。アタシはそんな幼い頃から大人の言動に注意を払い、意を汲んで動く子供だった。後々残る写真だというのに馬鹿な事をしたものだと思う。

 あの頃の幼友達にとても可愛らしい子がいた。眼の大きな顔立ちや小柄な身体つきだけではない。活発で良く笑い人懐こく、いつも楽しそう。大人からも年上の子達にも仲間からも好かれる子だった。自分の事を舌足らずに名前呼びし、あけすけに家の内の事を喋り、敬語など使うことが出来ず、欲しいものを欲しいと言い、嫌な事は嫌だと言えた。世の中は善意で溢れていると信じているから、知らない人にでも親しく話しかけていた。彼女が色んな人に抱きあげて貰ってはきゃあきゃあと喜ぶ姿をよく見かけたものだ。誰にとってもとても可愛らしい子だった。

 だが、彼女の在り様はアタシが「こうしなさい」と求められていた姿からはかけ離れていた。人に優しく思いやりを持とう。「何でー?」喧嘩をせずに譲り合いましょう。「これ頂戴」自分の事は自分でしましょう。「でーきーなーいー」時と場に応じた振舞いを身に付けましょう。年少者を可愛がり年長者に敬意を払いましょう。あの子にはまだ難しい事が多かったのだろう。だけれども、あの子は皆から可愛がられた。そう。彼女はとても子どもらしかったのだ。子供が子どもらしいのは身体の大きさや比率のアンバランスさだけではない。拙さや未熟さは「できた!」少しずつできるようになる喜びと共に有り、いつか失われる無邪気さや警戒心の無さは微笑ましかった。それがまだ出来ていないからこそ子どもらしく、愛されるべき存在だったのだ。

 「こうしなさい」と言われていたことは何も間違っていない。それらは大人の意をくむアタシには難しい事ではなかった。

「貸して」

「いいよ」

「ちょうだい」

「…いいよ」

「自分でなさい」

「……はい」

幼児なのに友達の親、教師を含めて大人には敬語で礼儀を弁え、大抵の事をそつなくこなすアタシは子どもらしくは無かった。可愛くなかったのだ。ただやはり幼かったから、貸し与えくれてやれば失われ、自分で出来るのならば放置されるだけなのだと気付くのが遅かった。「こうしなさい」はいつか大人になるまでにゆっくり手に入れればいいものばかりだったのだ。あの頃失われたのは物や順番だけじゃない。

「いつもぶすっとしちゃってさ」

楽しさも、笑顔も、もう一度手に入れることなど出来ない無償の好意も。



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