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第82話 礼だけを受け取る

お読みいただき、ありがとうございます。

どうぞ、今回の旅もお楽しみください。

 ニコが宿へ戻ったのは、夕方になってからだった。

 小さな鞄は、まだ肩に掛かっていた。出かける前と同じ形なのに、部屋へ運ぶことを忘れたように、中庭の入口で立ち止まる。

 エドガーは馬具を拭いていた。空いた椅子を足で寄せると、青年は鞄を膝へ載せて座った。


「出所は」

「保留です。取り消す点数と、処分が決まるまで」


 ニコは鞄から、娘の手紙を出した。折り目の端が湿っている。


「港へ、連絡は届いたか」

「渡してもらえました。妻から返事が来ました」

「娘は」

「花を持ってきていたそうです」


 青年は手紙を開き、花の描かれた端だけを見せた。エドガーは拭いていた革具を膝へ戻した。


「トマには、謝ったのか」

「呼び止めようとしました。でも、行ってしまって」

「……そうか」


 フレイアが中庭へ入ってきた。修繕工房へ、少年が帰ったかを聞きに行っていた。

 親方は戸口から返事をしてくれた。トマは夕食を食べている。今日はもう、誰にも会わせたくないという。


「食べていたのですか」


 ニコが尋ねた。

 フレイアが頷くと、青年は膝の鞄を少し横へずらした。


「俺、あの子には、最後に多く渡しておけばいいと思っていました。娘に花を買う分を残して、余ったら」


 指が、手紙の花へ触れた。


「出る日が近づいたら、あの子が水へ入っている時間まで、短く感じるようになって。俺はもう終わるからって」


 エドガーは黙っていた。

 宿の女が食堂から椀を運んできた。ニコは立ち上がりかけたが、座って食べなさい、と言われて、もう一度腰を下ろす。

 椀の取っ手に、自分で布を巻いた。

 フレイアはその手を見てから、向かいの椅子へ座った。


「セラさんに、全部言えたか、まだ分かりません。帰ってくる途中で、言い忘れた名前を一人思い出しました」

「書いておけ。明日、また話せる」


 エドガーが言った。

 ニコは娘の手紙の裏へ書こうとし、やめた。宿の女に、別の紙を頼んだ。

 紙が来るまで、煮込みを一口食べる。長く噛んでから、ようやく呑み込んだ。


「娘にも、もう一通書きます」

「帰る日が決まらぬことを、先に書け」

「はい」

「来なかった理由を、一人で考えさせるな」


 フレイアの指が、風で動いた花の絵を押さえた。

 ニコは椀を脇へ寄せ、ペンを取った。最初の一行に、長い時間が掛かった。


 翌朝、雨は上がった。

 大型渡しは昼の便から動くことになった。エドガーは馬車の積載を頼み、その足で認定所へ寄った。

 セラが、昨夜ニコから追加の申告があったと教えてくれた。トマの話も、別に聞き直すという。

 フレイアは窓口の脇の椅子へ目を向けた。モルが座り、膝の上の袋を何度も開いている。


「薬の日か」

「昨日だったのを忘れていてね」


 看護係が袋を受け取り、紙を一枚しまった。モルが立つと、そばの男が先に肘を支えた。

 最初に巡回を呼びに走った、店の男だった。


「今日は、誰を呼べばいいか知ってるから」


 エドガーへそう言い、男は老人と一緒に戸口を出た。セラは二人を見送り、机へ戻った。


「待つ人が、ずいぶん減ったな」

「今朝は、救護所の人が来ています。明日も来られるか、あとで相談をします」


 セラの卓には、まだ白紙のままの用紙が積まれていた。

 エドガーは聞き取りの紙を読み、名前を書いた。フレイアも、老人を運んだ時の欄へ署名した。


 港へ戻る途中、エドガーは店先で揚げ菓子を二つ買った。

 フレイアが一つを受け取る。片面だけ、砂糖が厚かった。


「そなたの方が多くないか」

「よく見ろ。こっちは裏だ」

「ならば、表を見せてみよ」


 男は紙包みごとひっくり返した。白い砂糖が外套へ落ちる。

 フレイアは吹き出しかけ、菓子を口へ押し込んだ。


「言ったとおりだろ」

「……裏まで落とすとは、思わなんだ」


 船着き場の列で食べ終えた。エドガーが襟元を払う間、フレイアは二人分の紙を畳み、自分の荷袋へしまった。


 出航前、ニコが港まで見送りに来た。監督を受けているため、外門の内側までだった。通行証を巡回員へ見せ、その線を越えずに立っていた。

 エドガーが馬車へ乗ると、ニコは一歩だけ近づいた。


「最初に宿へ案内したの、点のためでした」

「だろうな」


 ニコは袖に残った、宿で使っていた布の糸をつまんだ。


「手紙は書いたのか」


 エドガーが尋ねると、青年は頷いた。


「妻にも、娘にも。全部、同じ書き方にはできませんでしたけど、帰る日が分からなくなったことは、書きました」

「次は、決まってから知らせろよ」

「そうします」


 出航を知らせる笛が鳴った。ニコは道を空けた。馬車が進み始めると、ありがとう、と言った。何に対してかを、二人は尋ねなかった。

 積載口の手前で、エドガーが外套を引っ掛けた。前から傷んでいた縫い目が裂け、小さな金具が落ちる。

 後ろに並んでいた男がそれを拾った。


「そのままだと、また落とすぞ」


 男は荷物から針入れを出し、馬車の脇へ寄った。エドガーが脱いだ外套を受け取り、手早く布端をそろえる。袖に収容者の腕輪がのぞいた。


「急いでるなら、自分で直すが」

「荷役の交代待ちだ。じっとしてるより、こっちがいい」


 男は糸を通した。船員が最後の荷物を確かめる間に、縫い目が閉じていく。

 エドガーは自然に筆記具を取り出した。


「署名は、どこへ」

「それ、今月から対象外だ。簡単な繕いは申請が多すぎるってさ」


 男は糸を切り、針を針入れへ戻した。


「礼だけでいいよ」


 エドガーは筆記具をしまった。外套を羽織り直す。金具は、今度はきちんと留まった。


「助かった。ありがとう」


 男は片手を上げ、呼びに来た荷役の方へ歩いていった。ニコがいる外門とは反対側だった。

 馬車が船へ載り、フレイアは河の向こうを見た。渡しの綱が外される。岸がゆっくり遠ざかっていった。


 エドガーは新しい縫い目を指で押さえた。船が揺れ、繕った布が肩に馴染んだ。

 船が河の中央へ進んだ。少し冷たい風が外套を膨らませたが、直した金具は外れなかった。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

続きも読みたいと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

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