第81話 自分の名前で話す
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
「水へ入ったのは、俺が金を出したからです」
ニコは言った。
オルドが短く舌を打つ。トマはまだ座らず、椅子の背を握っていた。
「二回です。俺が頼んだのは。先に下の階段へ回って、助けを呼ぶのを待っていました」
セラがペンを取った。
青年は娘の手紙を出所証から抜き、鞄へしまった。しまい終わっても、鞄の蓋を閉める手が離れなかった。
「一度目は、あの子から言ってきたのか」
エドガーが聞いた。ニコは首を振った。
「オルドさんに、すぐ点になる仕事があると言われました。場所を見て、大丈夫だと思った。子供が先に来ていて、やり方も知っていたので」
「なら、俺だけに頼まれたことにするのか」
オルドは椅子へもたれた。
「一回目が終わってから、また頼んだのは誰だ」
ニコは机の端を見た。
「俺です」
セラのペンが動いた。窓の外で、誰かが認定された点数を読み上げていた。
トマが椅子を引いた。
「俺も、話していい?」
セラが頷く。少年は座り、膝の上に手を揃えた。
何度も水へ入った。そのたびに、少し下で待つ大人の顔を見た。引き上げてもらえる場所へ泳ぎ、見物人が少なければ、もう一度声を出した。
途中まで話して、ニコを見た。
「一回、返事をしなかったでしょ」
青年が顔を上げる。
「後ろに舟が来てたから、待てって言われて。足が滑ったんだ。届いたけど、底がぬるぬるしてて」
ニコは何か言いかけた。
少年は先に続けた。
「だから次は、壁の段を使った。俺が知ってたんだ。そこを歩けばいいって、教えた」
親方の指が膝の上で組み直された。
トマはその手を見て、肩を縮める。
「俺、使い走りよりたくさん貰えるから。屋根の修理に行けないぶん、俺が――」
「俺の腰のせいにしなくていい」
親方は言った。
怒鳴る声ではなかった。トマは机を見たまま、口を結んだ。
オルドが椅子を押した。
「泳ぎをしくじったことまで、俺たちのせいにするな。仕事を選んだのはお前だ」
男の手が、少年の肩へ伸びた。
フレイアは間へ入った。指先に集めた魔力が、卓上のペンを転がす。オルドの腕は、まだ少年に触れていなかった。
「待って」
トマが言った。
フレイアは振り向いた。
「俺、まだ言ってない」
少年は彼女を見上げていた。逃げ出しかけた足を椅子の下へ戻し、机へ向き直る。
フレイアは指を開いた。止まったペンを、セラが拾った。
彼女は扉の脇へ下がった。オルドが一歩動くと、そこに立っているフレイアを見て止まった。
「お金を貰ったから、嘘も言った。でも、やめたい時に、どこでやめればいいか分かんなくなった」
ニコは顔を伏せた。
「おじさんたちが出ていくまで、って思ってた。また次の人が来るから、その人が出るまで。そのあとも誰か来るし」
窓の外で、点数を読み上げる声が止んだ。
トマは自分の指を一本ずつ握った。
「俺は、いつ終わるんだろうって」
エドガーは椅子へ手を掛けたまま、動かなかった。
ニコはようやく鞄から手を離した。
「明日からは、頼みません」
「今日、言って」
少年の声は小さかった。
「今日から、もう頼まないで」
ニコは頷いた。頷くだけで終わらず、顔を上げて言い直した。
「今日から、頼まない。ほかの人にも頼ませないように、知っている人の名を話す」
オルドが鼻で笑った。
「立派だな。そう言えば、それも点になるか?」
フレイアは男を見た。指が再び曲がり、外套の布をつかんだ。
ニコが、セラへ顔を向ける。
「なりますか」
セラはペンを止めた。
「不正を説明したことを、救助の点にはしません」
「……はい」
青年は返事をした。膝の上の出所証を見て、赤い印のある側を表へ返す。
「二度目の申請書も、俺が書きました。あの子が勝手に転んだと書きました。対岸で見ていた旅人には、助けたところしか見せていません」
セラが新しい紙を出した。
ニコはそれを待たず、次の日付を言った。トマに渡した金の額も、救助に呼ばれる前から川にいた者の名も。
正午の鐘が鳴った。
トマは親方と先に帰った。出る時、ニコが呼び止めかけたが、少年は振り返らなかった。親方が空いた方の手を差し出すと、そこへ赤い布を載せた。
オルドは別の部屋へ呼ばれた。帳面は持っていないと言った。セラは巡回員へ引き継ぎ、机の紙を揃えた。
ニコの聞き取りは終わっていなかった。
窓から、港の小舟が岸を離れるのが見えた。青年は一度だけ立ちかけ、座り直した。
「娘たちが、向こうで待っています」
セラが顔を上げる。
「遅れると、知らせたいんです。今日、帰れないと」
女は机の引き出しから紙を出し、ニコの前へ置いた。
「連絡先を。港から渡せるか、係に聞きます」
ニコは紙を引き寄せた。住所を書いてから、文の初めで止まった。
フレイアは戸口に立っていた。青年の顔を見ず、窓から入る風で浮いた紙の端を押さえた。
しばらくして、筆先が動いた。
エドガーは二人分の椅子を廊下へ寄せた。フレイアが座るまで、隣を空けていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
続きも読みたいと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




