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第80話 出所証を持つ男

お読みいただき、ありがとうございます。

どうぞ、今回の旅もお楽しみください。

 朝から雨だった。

 宿の食堂で、ニコは一度も椅子に座らなかった。呼ばれるより先に椀を運び、濡れた客の荷物を受け取り、入口の泥を拭いた。娘からの手紙は、畳んで胸へ入れていた。

 エドガーが認定所へ出かける時、青年は扉を開けてくれた。


「あとで、行きます」


 エドガーは頷いた。フレイアは、青年が扉から手を離すのを待って外へ出た。

 認定所の窓口には、セラという女がいた。エドガーが救助の不正について話すと、彼女は奥の小部屋へ案内した。

 少年の言葉。ニコが認めた二度の救助。オルドが持つ帳面。セラは途中で一度、トマの年を尋ねた。


「本人にも来るよう伝えた。正午まで、ここで待つ」

「その方の出所は、いったん止めます。お二人も、もう少し話を聞かせてください」


 セラは机の端へ出所者の名簿を寄せ、ニコの欄へ赤い線を引いた。エドガーは、乾くまでの短い間、その線を見ていた。


 ◆


 ニコは九時前に来た。

 襟を整え、荷物を小さな鞄一つにまとめていた。エドガーを見つけると、入口で足を止める。


「話した」

「……はい」


 セラに呼ばれ、ニコは小部屋へ入った。

 フレイアとエドガーは廊下で待った。窓の外では、旅人の申請書に次々と印が押されていた。椅子を勧められたが、エドガーは立ったままでいた。

 しばらくして、トマが来た。修繕工房の親方がついている。少年は赤い布を首から外し、丸めて握っていた。


「叱られたか」


 エドガーが聞くと、少年は頷いた。


「金は返せって。でも、いくら使ったか、全部覚えてなくて」


 親方は何も足さなかった。トマの濡れた肩を拭き、空いた椅子へ座らせた。

 小部屋の戸が開いた。ニコが出てくる。手には出所証があったが、赤い印が増えていた。


「説明したのか」


 エドガーが尋ねた。


「俺が引き上げたことは、話しました」

「何のために、水へ入れたかは」


 ニコは出所証を二つに折った。端が合わず、開いて畳み直す。


「……今、確認していると」


 トマが椅子から立った。


「俺、また同じことを言えばいい?」


 ニコの手が止まった。

 親方が少年へ向き直った。


「同じことって何だ」

「自分で入った。足を滑らせた。ニコさんが助けた」


 少年は、教わった順番を一つずつ確かめる声で言った。


「怪我がなくてよかった、って」


 廊下を、別の職員が書類を抱えて通った。ニコはその紙へ目をやり、すぐ少年へ戻した。


「トマ、それは」

「どこが違うの?」


 少年はニコを見た。赤い布を持つ指が、濡れた端を絞っていた。


「お金を貰ったのは言わない方がいいんでしょ」


 親方がゆっくり腰を下ろした。少年の手から布を取り上げ、広げて膝へ置く。トマは叱られると思ったのか、首を縮めた。


「俺が自分で決めたって言えば、ニコさんは帰れる?」


 ニコは返事をしなかった。

 フレイアが小部屋の扉を見た。セラは開いた戸口に立ち、廊下の声を聞いていた。

 青年は出所証の折り目を押さえた。紙の内側に挟んだ、娘の描いた花が少し見えた。


 ◆


 オルドは昼前に現れた。

 荷役の前掛けを外さず、ニコの肩へ手を置いた。セラにも呼ばれていたらしく、職員へ自分の番号を告げる。

 待つ間、男は少年を見た。


「泳げるから頼んだんだ。嫌なら断れた。なあ」


 トマが頷きかけた。

 親方は口を開いたが、その前にニコが一歩動いた。オルドの手を、肩から下ろす。


「その聞き方は、やめてください」

「昨日までは一緒に聞いてただろ」


 ニコは唇を噛んだ。

 フレイアは男の前へ出ようとして、エドガーを見た。彼はオルドではなく、トマが顔を上げるのを待っていた。

 セラが小部屋の椅子を引いた。


「まず、トマさんに聞きます」


 少年は親方を見た。それからニコを見て、立ち上がった。

 握ろうとした赤い布は、親方の膝で乾かされていた。


「俺、何て言えばいい?」


 ニコの口が開いた。いつものように順番を教えかけ、止まった。

 廊下の時計が、一度鳴った。

 青年は出所証を持ったまま、少年の椅子の前に立っていた。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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