第8話 明日も店は開くけれど
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
夜になっても、窓の灯りは消えなかった。
通りを歩く者は少ない。だが、建物の内側には人がいる。向かいの家では少年が机へ向かい、その隣で父親らしい男も本を開いていた。少し離れた窓からは、何かを暗唱する声が低く聞こえる。
フレイアは借りた部屋で小冊子を開き、同じ行を三度読んだ。
人間の親子について書かれた頁だった。ジマリハを出る前には、それを読む必要があるとも思わなかった。
エレイナは妹を育てるために働いていた。酒場の店主は、自分とは別に暮らし始めた息子の死で店を閉じかけた。
同じ血が繋がるというだけで、なぜ別の者の明日へ、これほど自分を費やすのか。
本にはそれを愛情と呼ぶと書かれていた。だが、名を覚えても、あの二人の手つきまで理解できたわけではない。
机の上へ置いた鉄の鍵を、指で回す。
知らぬ老人がこれを預けた理由も、まだ分からなかった。
「レイ。飯、行くぞ」
扉の向こうからエドガーが呼んだ。
フレイアは本を閉じ、思っていたより早く立ち上がった。扉を開けると、商人が得心したように笑う。
「さすがに、その反応は覚えた」
「学ぶことは、よいことであろう」
言い返してから、自分もこの国の者のようなことを言ったと気づいた。
◆
昼の店が並んでいた通りは、もう静かだった。
食事処らしい看板も暗く、酒場の入口には閉店の札がある。人はいるのに、商売が終わっている。エドガーは首を傾げながら、開いた窓の方を見た。
「夜の方が、客は来そうなもんだが」
「皆、本を読んでいる」
「腹は減るだろ。本は食えねえぞ」
通りを横切った男へ声をかけると、男は抱えた教材を持ち直した。次の授業へ急いでいると言いながら、営業している店の方向だけは教えてくれた。
礼を言う前に、靴音は角の向こうへ消えた。
「学ぶ者も、教える者も忙しいのだな」
「休むやつはいないのか」
「我らは休みに行くのであろう」
細い道の奥に、一軒だけ暖かい色の窓があった。
扉を開くと、粉の匂いと、焼いた何かの香りが流れ出した。カウンターの奥で生地を伸ばしていた男が、驚いたように顔を上げる。
「いらっしゃい。お食事でしたら、まだできますよ」
丸い眼鏡に、小麦粉のついた袖。二人を席へ通すと、店主は厨房へ戻り、止めていた手をまた動かした。
卓の上の献立には、知らぬ料理の名がある。フレイアは一つずつ指で追い、『ピザ』という文字で止まった。
「これは、何をするものだ」
「食うものだよ」
「それは分かっておる」
エドガーは笑い、店主へ注文した。
説明の中にチーズという名が入っていたため、フレイアは別の品へ変える理由を失った。
「なあ、夜はいつもこんなに静かなのか」
エドガーの問いに、店主は生地を伸ばしながら頷いた。
「半年前に、夜間勉学令が出ましてね。学生や研究者は、夜にみだりに出歩かず、勉学へ励むように、と」
「普通の働き手まで、か?」
「初めは対象外の人も多かったんです。でも、自分も少し学んでおこうと本を買い始めて。今では、夜の客は随分と減りました」
店主は生地を台へ置いた。薄くなりすぎた部分を指で寄せ、縁の一部だけを厚くする。
「昼へ来る者が増えたなら、構わぬのでは」
「そうですね。昼の仕込みを増やして、何とか」
返事の間に、男は棚の瓶へ目をやった。
エドガーがそれに気づき、酒はないかと聞く。
「すみません。三か月前から、出せなくなったんです」
「今度は、禁酒法か」
「ええ。学問や労働へ悪影響があると」
エドガーは背もたれへ身体を預けた。フレイアは、その規則だけは自分に不利益がないと思ったが、わざわざ口へは出さなかった。
店主の前には、水の入った杯が置いてある。長く酒を売っていた店であろうに、自分の分も残していないらしい。
「賢い王様にも、随分と窮屈なところがあるな」
エドガーがこぼすと、店主の手が止まった。
「……賢王様には、感謝していますよ」
咎めるほど強い声ではない。だが、それまでと同じ調子でもなかった。
「前は、粉の値が月に何度も変わりました。水が止まれば、生地も仕込めない。店を開けても仕入れ代に追いつかない日があって」
男は生地へ赤いソースを塗り、匙の底で広げた。
「今は、ちゃんと水が出る。買う物の値段も見通せる。道が直って、遠くの食材も届く。あの方がいなければ、私は、もう店に立てなかったでしょう」
フレイアは棚を見た。
油と香辛料と、よく干した食材。今日の料理を作るため、どれだけの場所から物が届く必要があるのか。店主の話は、その一つひとつを、初めて見える形にした。
「それを、集めた知識で決めているのか」
「そう伺っています。我々が知ったことを納め、それを賢王様が役立ててくださる。小さな経験でも、皆の暮らしへ戻ってくるのは、よいことだと思います」
フレイアは、自分の納めた草がどこへ渡るのか考えた。
誰かが雨に備え、荷を濡らさずに済むかもしれない。たったそれだけのことでも、朝に手放した知識の意味が増えたように思えた。
◆
窯の前で、店主が長い板を滑らせた。
丸い生地が現れ、卓へ運ばれる。赤いソースの上でチーズが泡立ち、端は少しだけ焦げていた。切り分ける刃を入れると、薄い音がした。
「熱いですから、お気をつけて」
フレイアは縁を持ち上げた。中央が折れそうになり、慌てて皿を寄せる。チーズの糸が一つ長く伸びたので、それを切るまで、誰も彼女へ話しかけなかった。
口に入れると、酸味が先に来た。次に脂の甘みが重なり、最後に焼いた生地の香りが残る。
彼女は噛むのをやめないまま、皿の残りを見た。
「冷めたら変わるのか」
「少し固くなりますね。焼きたてがお勧めです」
「では、話は後にする」
エドガーが笑ったが、彼自身もすぐに次の一切れへ手を伸ばした。
フレイアは最後の一枚を取る前に、男の皿を確かめた。二人分として頼んだものだからだ。彼の分はまだ残っていた。ならば問題はない。
「貴様の分も、食べられるぞ」
「俺が自分で食うんだよ」
店主が声を立てて笑った。二人が来た時より、少しだけ若く見えた。
フレイアは口元を拭い、もう一枚頼めるかと尋ねた。まだ材料はあると返ってきて、彼女はそれなら待つと頷いた。
生地を作る間、店主は窯の奥を一度覗いた。
薪を動かし、火の当たる向きを変える。それから、また縁の一部を厚くした。先ほどと同じ場所だった。
「なぜ、そこだけ形を変える」
「窯の癖でね。あちら側の火が少し強いんです」
「窯を直さぬのか」
「慣れましたから。これでも、上手く焼けますよ」
言いながら動かす手に迷いはなかった。
店主は薪を一本引き、焼きかけの生地を少し奥へずらした。
フレイアはそれを見て、自分も一度作ってみれば分かるだろうかと考えた。
二枚目を食べ終わった時、店主は奥から紙を持ってきた。
包むためのものだと思ったが、紙には国の紋章が押されていた。男はそれを窯のそばへ置き、二人の皿を下げた。
「最後に、よく食べるお客様が来てくださってよかった」
エドガーが顔を上げる。
「最後? 閉店の時間か」
店主は首を振った。
手についた粉を、いつもより丁寧に払ってから答えた。
「明日も店は開きます。でも、私がここで焼くのは、今日で終わりなんです」
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