第78話 署名のできない人
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
「点の話はしてねえ。どっちだって聞いてるんだ」
老人は、かすかに顎を動かした。坂の下に青い庇が見えた。フレイアが老人を抱き上げると、エドガーは先に走り、救護所の扉を開けた。
寝台に下ろしてからも、老人は何度か謝った。看護係が血色と呼吸を確かめ、水を少しずつ飲ませる。フレイアは邪魔にならない位置へ退き、エドガーは頼まれた毛布を運んだ。
巡回員が到着したのは、そのあとだった。先ほどの店の男も戻ってきて、老人の脱げた靴を寝台の下へそろえた。
「すみません。二人がかりなら、担架を持って戻れると思って」
エドガーは言いかけたものを飲み込んだ。男の靴も、巡回員の裾も、坂の泥に汚れていた。
老人の震える手を見て、フレイアは尋ねた。
「あの者は、なぜ点にならぬと言った」
看護係は薬棚を閉じた。
「あの方、以前に同じ人から何度も救護を受けていてね。水増しを疑われて、追加の確認が必要になっているの。手も震えるから、ご自分では署名できない」
「確認すればよかろう」
「ええ。職員の聞き取りと、診療記録があれば認定される。でも、今日の申請が今日の点になるとは限らない」
エドガーは受付に積まれた書類を見た。読み上げを待つ者、代筆を待つ者、用紙の不足を告げられて帰る者。入口に近い窓口では、旅人の署名がある紙に、次々と印が押されていた。
ひとつの列だけが速かった。
老人は眠り始めた。二人が外へ出ると、店の男がまだ立っていた。
「俺も、日数が足りなくて」
誰も尋ねていないことを、彼は言った。
「認定を待っている間に、息子の面会日が来るんです。余計な疑いを掛けられたくない。だから巡回に任せた方が――」
言葉はそこで途切れた。エドガーは怒りを向ける相手を失ったように、革の手袋を握り締めた。
「次に倒れたら、先に支えてくれ。巡回を呼ぶのは、そのあとでもできる」
男は頷いた。できると約束する言い方ではなかった。
◆
渡しの再開は明後日の朝になる見込みだった。馬車を載せるには、前日までに積載台へ運び込む必要がある。
エドガーが宿へ戻ると、ニコが中庭の椅子に座り、紙を膝に載せていた。仕事の申請用紙かと思ったが、端に小さな花が描かれている。
「手紙か」
「娘からです。字は、妻に書いてもらってますが」
ニコは紙を隠しかけ、思い直して膝の上へ戻した。
「花屋の前を通ると、俺にも花を買うと言うそうです。帰ってくる時に持っていくんだって」
「幾つだ」
「七つに。こちらへ来た時は、まだ四つでした」
エドガーは壁に背を預けた。町外れで倒れた老人の話をすると、ニコはすぐに誰のことか分かった。
「モルさんでしょう。薬の受け取り日を忘れるんです。俺も二度ほど運びました」
「次は運ばねえのか」
青年の指が、手紙の折り目をなぞった。
「救護の人に知らせます」
「それで間に合わなかったら」
「……商人さん。俺、あと一日なんです」
言い返す声ではなかった。何とか分かってほしいと頼む声だった。
「明日の朝、最後の認定が下ります。余計な確認で止まるのが怖いんです。もう三年も、待たせてますから」
エドガーは中庭の入口へ目を向けた。フレイアが立っていた。いつから聞いていたのかは分からない。
「娘は、そなたが誰を助けたかを知っておるのか」
「詳しくは。よく働いている、と書いてます」
「ならば、詳しく書けばよい」
ニコは答えなかった。手紙を折り畳む音だけがした。
夕食の時間になり、宿の受付にいた女が鍋を運んできた。片足を少し引きずっていた。エドガーが代わろうとすると、女は軽い方の籠を任せた。
「荷物を運んでもらうの、慣れてるのよ。屋根から落ちた時、ここの人たちが交代で店まで運んでくれたから」
その話を聞いて、ニコの顔にわずかに血が戻った。
女は、救助の認定で大きく刑期が縮まった住民を二人、名前で挙げた。雨漏りを直してくれた者、薪を割ってくれた者。点が目当てでも、冬に凍えずに済んだのは確かだと言った。
「刑務所の中でじっとしてても、私の屋根は直らないでしょう」
エドガーは頷いた。老人のことを思い出すと、簡単には頷けなくなった。
食後、フレイアは熱い椀に巻かれた布を外した。今夜もニコが巻いていた。火傷はしないと、昼に教えたばかりだった。
ニコが皿を返しに裏口へ出る。細い足音が近づいた。
「ニコ」
扉の隙間から、短い上着の少年が顔をのぞかせた。濡れてはいない。首に結んだ赤い布の端を、指で揉んでいる。
「おじさん、明日には船に乗るって言ってた」
「トマ。ここでは――」
「じゃあ、次はいつ溺れればいい?」
食器の触れ合う音が止まった。
エドガーの手から、空の椀が滑りかけた。
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