第77話 親切の受領証
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
リズナの城門をくぐると、見知らぬ男が駆けてきた。エドガーの落とした手袋を拾い、馬車へ追いつこうとしている。
「商人さん。これ、あなたのでしょう」
「おう、助かった」
男は土を払い、両手で差し出した。そのまま立ち去るかと思うと、上着の内側から細長い紙を出す。
「こちらに、受け取りの署名をいただけますか」
エドガーは紙と手袋を交互に見た。
「手袋一つに、受領証か?」
「お手間は取らせません。拾得物返還、一件です」
紙には日時と場所、拾った品物、返した相手を書く欄があった。代金の請求書ではないらしい。エドガーは荷台から筆記具を取り、手袋の特徴まで確認してから名前を書いた。男はそれを大事そうにしまい、今度こそ笑って去っていった。
荷台に座るフレイアは、その背を眺めた。男の足取りは軽い。拾ったものを返す前より、何かを手に入れたあとに見えた。
「変わった習慣だな」
「面倒だが、請求書じゃないだけましだ」
橋の崩落で遠回りをした分、出費は抑えたいところだった。河港には馬車を載せられる渡しがあるという。二頭の馬も、いつまでもぬかるんだ道を歩かせずに済む。
エドガーが港の方角を探していると、今度は若い女が地図を持ってきた。道順を教わり、署名をした。その先で馬に水を勧められ、署名をした。港へ着く前に三枚目の紙を返し終えたところで、彼は筆記具をしまうのをやめた。
「ここじゃ、名前を書けない奴は旅もできねえのか」
「代筆窓口もありますよ」
答えたのは、馬車の横を歩き始めた青年だった。年は二十代の後半ほど。薄茶色の髪を短く切り、袖の肘を丁寧に繕っている。
「港へ行くなら、今日はもう便がありません。上流の雨で、出航が明後日になるかもしれないそうです」
「先に言ってくれよ。いや、今来たのか」
「ニコです。空いている宿なら案内できます。厩もありますし、旅人の宿泊費は二泊まで街が持ちます」
エドガーの顔が、分かりやすく緩んだ。
「厩代もか?」
「飼葉の追加分は別ですが」
「十分だ。案内してくれ」
フレイアは荷台の縁に肘を置いた。
「その案内にも、署名が要るのか」
「はい。宿まで着いたことを確認していただければ」
「我らが途中で逃げたら、どうなる」
ニコは少し困った顔をした。
「できれば、逃げないでください」
無料の宿を前に逃げる理由はない、とエドガーが答えた。青年はほっとして、馬車が通れる広い道へ二人を導いた。
街は清潔だった。側溝には落ち葉を集める籠があり、車輪が跳ねた水を浴びそうな子供を、店先の老人が手招きして避けさせた。店の軒下には小さな卓が置かれ、人々が紙を並べている。壁には、名前と数字を記した木札が掛かっていた。
ニコはそれを指さした。
「あれが、善行スコアの認定所です」
「善行?」
「人を助けた分だけ、刑期が短くなるんです」
エドガーは手綱を握り直した。ニコはその反応を見慣れているらしく、袖をまくって腕輪を見せる。細い鉄の帯に、番号が刻まれていた。
「この街は収容都市です。周辺の国々から、俺たちみたいな者が送られてきます。城壁の中なら働けますが、刑が終わるまでは外へ出られません」
「じゃあ、さっき手袋を拾った奴も」
「たぶん。職員や家族も住んでいるので、全員ではありませんが」
手綱を握る指が動いた。フレイアは、エドガーが荷台の鍵へ目をやったのに気づいた。ニコも気づいたらしかったが、何も言わなかった。
認定所では、腰の曲がった女が掃除の報告をしていた。若い職員が用紙を見て頷く。女は受け取った札を数え、胸元へしまった。
「掃除でも減るのか」
「ええ。通常の仕事にも少し付きます。でも、急病人の搬送や人命救助は大きい。罪によって減らせる上限は違います。弁償も別です。何人助けても、無かったことにはなりません」
最後だけ、青年の声が平らになった。
エドガーはしばらく認定所を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「まあ、拾ってくれた手袋は本物だ。俺が助かったのもな」
「そう言っていただけると、ありがたいです」
宿に着くと、ニコは自分から荷箱を持とうとした。エドガーは鍵の掛かった箱だけ自分で運び、寝具の入った袋を任せた。ニコは嫌な顔をせず、馬の水桶まで確かめた。
宿の食堂には、野菜の煮込みの匂いがしていた。受付の女が二人分の椀を並べる。フレイアが手を伸ばすより早く、ニコが熱い取っ手に布を巻いた。
「火傷しますから」
「我は、この程度では傷つかぬ」
「ああ、そうでしたか」
ニコは布を外さなかった。宿泊票の記入を済ませると、細い紙を出した。案内を受け、荷物を運んでもらったことを、エドガーは確かめて署名した。
「こっちの布は書かなくていいのか」
「同じ相手への細かな気遣いは、まとめて一件なんです」
青年は笑い、署名の乾いた紙から順に重ねた。
食後、エドガーは出航の見込みを自分で確かめに行くと言った。フレイアも同行した。ニコは別の旅人を迎えに、城門へ戻っていった。
港への坂を下り始めたとき、前を歩いていた老人の膝が折れた。
エドガーが反射的に肩をつかんだ。抱えきれずに片膝をつく。フレイアは老人の頭が石畳へ落ちる前に受け止めた。
「おい。聞こえるか」
向かいの店から、一人の男が出てきた。エドガーは救護所の場所を尋ねた。男は老人の顔を見て、足を止める。
「また、あの人か。巡回を呼んできます」
「待て、担ぐのを――」
男は坂を駆け上がった。助けを呼びに行くのは分かる。けれど、エドガーの腕の中では、今も老人の体がずり落ちかけていた。
老人が目を開いた。乾いた唇が、息と一緒に動いた。
「すまないね」
「喋るな。救護所はどっちだ」
「私を助けても、点にはならないよ」
エドガーは顔を上げた。白い腕輪の下で、老人の手が細かく震えていた。
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