第76話 その仮面の下の名前
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
翌朝、アデルミラは工房の門より少し手前で止まった。
青い仮面を着け、洗った手を外套の内側へ入れている。
朝の工房は、昨日見た売場とは違う音を立てていた。裏庭で板を下ろす音。足踏みの車が回り、刃物を研ぐ音。門の片側には削り屑の袋が積まれ、通る者は先の尖った道具を身体の内側へ抱え直していた。
少女はその人の流れを見て、戸口へ踏み出す時を待った。
「ここで待ってて」
ルシアへ言った。
「一人で聞いてみる」
「分かりました」
ルシアは、門の脇へよけた。
少女が中へ入り、声を掛ける。
返事があるまでの間に、指先を動かしたくなった。
動かさずに待った。
ナーダが奥から出てきた。
「おはよう、アデルミラ」
名を呼ばれて、少女の肩が少し下がる。
職人頭の前へ進み、昨日の約束で来たと話した。
男は青い仮面を見た。
それから引き出しを開け、同じ蝶番を出した。
「ここでやってくれ。使っていい道具は、この箱だ」
「壊れた仮面の話は?」
「そちらは運搬の担当と、別に聞く。今は、これを見てくれ」
アデルミラは椅子へ座った。
蝶番を開き、閉じる。
軸が曲がっている。片側の穴も広がっていた。
卓上の部品入れには、太さの異なる軸が小分けにされていた。何となく似た物を取ればよいのではない。アデルミラは端切れの上へ古い軸を置き、窓の明かりを遮っていた自分の肘を引いた。
職人頭の面には派手な飾りがなかった。顎の下へ粉が残り、指の腹は金属の色に曇っている。その手は答えを先に示さず、少女が部品を並べる場所だけ空けてくれた。
力を込めれば動きそうだったが、昨日、ナーダの娘へ言ったことを思い出した。
今日だけ持たせるのか、ずっと使えるようにするのか。
「この軸、取り替えていい?」
「なぜだ」
「曲がりを戻しても、こっちが薄い。何度も使うなら、またずれる」
職人頭が、少女の指した所を見た。
「交換用を選んでみろ」
ルシアからは、机の上までは見えなかった。
アデルミラが一度だけこちらを向き、また道具へ戻った。
待っている者がいることを確かめたのかもしれなかった。
ルシアは手を上げず、その場所にいた。
試験の後、職人頭は削りすぎた箇所を指した。
アデルミラは反論しかけ、部品を見直した。
「削る前は、ちょうどよく見えた」
「動かすと、隙間が増える。留まってる時だけで決めるな」
男は、別の部品を横へ置いた。
「今日は下準備を試す。銅貨八枚。昼飯は出る。明日からも来るかは、今日の仕事を見て決める」
少女は金額を繰り返した。
仮面が貰えるとは言われなかった。
ずっとここにいられるとも、言われなかった。
「分からなかったら、聞いていい?」
「壊してから黙って戻すより、先に聞け」
ナーダが、使う道具の場所を示した。
アデルミラは机へ手をつき、頭を下げた。
始業までの間に、ルシアの所へ戻った。
「今日だけ、仕事を試すって」
最初に賃金を伝え、昼食も出ると付け足した。
「嬉しいですか」
「怖い方が、まだ多い。でも、帰りたくはない」
少女は工房を振り返った。
「ルシアは?」
ルシアは、鞄の封筒を出した。
フレイアの証言と、エドガーが今覚えている範囲を書いたものが入っている。
「剣の国へ戻ります。帰りの荷馬車を頼みました」
「また来る?」
「まだ、決められません」
アデルミラは頷いた。
ルシアは続けた。
「来られるようになったら、手紙を出してもよいですか」
「何を書いてくれるの」
「……何を書けばよいのでしょう」
少女が笑った。
「そんなの、私に聞かないでよ。見たこととか、食べたものとか」
「あなたの仕事のことも、聞きたいです」
「じゃあ、聞いて。返事したくない時は、しないかもしれないけど」
「分かりました」
ルシアはそう答え、少し考えてから付け足した。
「返事がなくても、すぐに確かめに来るのはやめます」
「そこまで言わなくていいよ」
今度は、二人とも笑った。
工房の中から、ナーダが名を呼んだ。
アデルミラは手を上げ、走りかけて、入口で歩き直した。
高い仮面の者が通るまで待ったのではなかった。
工具を運ぶ職人と、ぶつからないためだった。
◆
破損した見本については、その日のうちに確認が終わった。
修理できる部分と、取り替えなければならない部分が分けられた。
負担額の返事を受け取れるよう、エドガーは次の宿場を書き残した。控えを折り、まだ閉じていなかった帳面へ挟んだ。
昼の休みに、アデルミラが銅貨二枚を持ってきた。
昨日、ナーダに貰った修理代だった。
「少しだけど」
エドガーは受け取らず、少女の掌を軽く押し戻した。
「誰がいくら払うかも、まだ決まってない。それは、お前が働いた金だ」
「何もしなくていいって、言われる方が困る」
「なら、説明したことを覚えておいてくれ。あとで聞かれた時も、同じことを話せるように」
少女は銅貨をしまった。
エドガーは荷台の革具を示した。
「こっちは、そのうち頼めるかもしれないな」
留め金が少し歪んでいる。
アデルミラは触る前に、どこで力が掛かるのかを尋ねた。
「今はまだ、直せるって言えない」
「ああ。だから、そのうちだ」
少女は頷いた。
ルシアの帰りの車は、別の街道へ向かう。
フレイアは出発前に、書類の入った鞄を確かめた。
「証言の写しは、我も持つ。違う所があれば、連絡を寄越せ」
「はい」
ルシアは彼女を見た。
「レイ様のことも、考えました」
「答えは出たか」
「いいえ。私のしたことだけでも、まだ聞かなければならないことがあります」
フレイアは、車輪の脇に立ったまま頷いた。
「我も、終えてはおらぬ」
エドガーは少し離れて、荷を結んでいた。
その手を止めなかった。
ルシアは挨拶をし、車へ乗った。
町の向こうへ消えるまで、アデルミラは工房の入口から見送った。
◆
城門を出た所で、二人は仮面を外した。
頬へ風が当たる。
エドガーは鼻の横を擦り、道の先を見た。
フレイアは、門に刻まれた言葉を振り返った。
人の価値は、顔ではなく中身によって決まる。
その下を、青い面の者と銀の面の者が、別々の列で通っている。
「今日は、仕事をしてるんだな」
エドガーが言った。
「明日も続くかは、まだ分からぬ」
「そうだな。続けたいと思える仕事ならいい」
フレイアは地図を開いた。
最果ては、まだ遠かった。
百年後に来いと言った者が、今どこにいるのかも分からない。
次の分岐に、新しい板が打ちつけられていた。
北の橋が落ち、河港へ迂回するよう書かれている。
フレイアは、地図の道を指で辿った。
「河港へ行けば渡しがあるという。馬車が載るかは、そこで聞かねばならぬ」
「もう一方は?」
「山へ戻る。こちらは日数が掛かる」
エドガーは板と地図を見比べた。
「まず、河港で聞こう」
「ああ」
シリウスとベガが、河へ下る道へ入った。
フレイアは地図を畳まず、次の道標まで膝に置いていた。
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