第75話 逃げないための名前
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
エドガーは、返却用の箱を地面へ置いた。
フレイアが宿から持ってきた箱だった。無傷の品を収めるために広げた布が、まだ端へ折り込んである。
今は布を広げ、曲がった仮面を載せる。
「貸出票だ。本店の担当に確かめてくれ」
兵士が紙と刻印を見比べた。
箱の中で、細い銀の線が途中から内側へ折れていた。紺の表面には煤が重なり、残った青い石だけが水気を返した。アデルミラは手を伸ばしかけた。布で拭けば、さっきまでの色に戻る部分もあるかもしれない。だが、折れた縁まで戻せるわけではなかった。
エドガーは見えやすい向きに箱を回し、破れた紐も一緒に載せた。
そばにいた男が、少女を指した。
「その辺の子が、持っていくのを見たんじゃないのか」
「俺は、借りるところから一緒にいた」
エドガーは言った。
「見ていないことまで、足さないでくれ」
ナーダが娘を抱いたまま、近づいた。
「工房には私からも知らせます。この子は、娘を外へ出してくれた」
男は肩をすくめ、火事の方へ顔を戻した。
アデルミラはその背中を見ていた。
謝る言葉はなかった。
追いかけて言わせるだけの息も、今は残っていなかった。
ルシアは、鞄から白い仮面を出した。
旅人札は、今着けている木の面についたままだ。無印の白い面だけを、少女へ差し出す。
「これを、しばらく使ってください」
「でも、ルシアは」
「木のものを、今使っています。これなら貸せます」
アデルミラは顔を拭き、白い面を受け取った。
紐を結ぶ指が、うまく動かなかった。
ルシアが後ろへ回り、結び目を支えた。
白い面は、銀の品より少し重かった。頬へ当たる場所が変わり、少女は口を動かして位置を確かめる。ルシアはすぐに紐を締めず、痛くないかと尋ねた。
返事をしてから、アデルミラは顔を上げた。箱の横にあるエドガーの手が、白い面の穴から見えた。
聞き取りは、火が消えてからも続いた。
油を足した者。灯りを下げた者。誰が客を地下へ案内したか。
店主は一人では答えられず、何度も給仕を呼びに行った。
ルシアは自分の見た順番を話した。
地下へ入った時、棚の向こうに給仕と子供がいたこと。外へ出す間に、さらに奥から声がしたこと。誰が灯りへ油を足したかは知らないと答えた。
アデルミラは、仮面を外した時のことを聞かれた。
「紐が引っかかった。見えなくなって、子供の手が離れそうだった」
「それで外した?」
「うん」
「拾いに戻ったのか」
「戻ろうとした。でも、止めてもらった」
兵士は書きつけた。
顔を隠す規則について、少女が小さく尋ねる。
「私、捕まる?」
「救助中に外した事情を記録する。この場で、そのために拘束はしない」
兵士は別の欄を指した。
アデルミラは紙を覗いた。
そんな欄があることを、知らなかった。
工房から、使いが来た。
約束の時刻を過ぎている。エドガーは貸出票を示し、火災と破損を報告した。
青い石が足りないことも、隠さなかった。
使いは手袋をはめ、持ち上げずに表と裏を覗いた。何が原因で曲がったかを聞き、落ちた木材の場所を確かめた。ルシアは捜しに戻りかけた所まで話した。
「今から拾いに入る必要はありません。現場へ入れるようになってから、こちらでも確認します」
その言葉を聞いて、アデルミラは食堂へ向けていた足を戻した。石を一つ見つけて返せば、説明が簡単になると思っていた。もう一度あの入口を通ることまで、考えかけていた。
「見積もりを出すまで、金額は分かりません」
「分かった。俺が明日、行く」
アデルミラが口を開いた。
「私が返す。働いて――」
エドガーが少女を見た。
「何年掛かるかも知らない約束を、今しなくていい」
「でも、私が壊した」
「着けてよいと決めて連れて歩いたのは、俺でもある。まず、何が起きたかを全部伝える」
少女は箱を見た。折れた銀の縁へ、まだ差し出せずにいた手を下ろした。
「私も、説明しに行く」
「ああ。それは頼む」
兵士が、最後に名を尋ねた。
少女は白い仮面の縁を押さえた。
「アデルミラ」
「居住区は」
持っている紙を出し、寝泊まりしている場所を答えた。
嘘の宿を言わなかった。
ルシアも、自分の許可票を出した。剣の国へ戻る予定があるため、後日照会が必要なら連絡先を残すと伝える。
名前を書き終えるまで、二人は並んで立っていた。
宿の入口で、受付の男が少女を止めかけた。
「こちらは――」
「昼の私だよ」
アデルミラが言った。
男は白い仮面を見て、それから後ろのエドガーを見た。
「お連れ様でしたね」
「そう。名前はアデルミラ」
少女は階段を上がった。
男が覚えたかどうか、振り返って確かめなかった。
部屋へ入ると、ようやく青い仮面へ着け替えた。
ひびも針金も、朝のままだった。
ルシアへ白い面を返し、道具を机へ並べる。
曲がった釘。短い針金。布を巻いた刃物。
娘の金具を直した分だけ、針金が短くなっている。
水で洗った指は、まだ少し震えた。道具を揃えても、刃の向きが斜めになる。アデルミラは一度全部を布で包みかけ、また広げた。明日の朝に開けば、今日の煤の匂いが残っているかもしれない。今、拭けるものだけでも拭いておきたかった。
ルシアは空いた水差しを持ち、洗面の水を替えた。手を出して道具を直さず、卓の濡れていない側へ置く。
「明日の試験、行きますか」
ルシアが聞いた。
「行く。壊したから、来ない方がいいって言われるかもしれないけど」
「昼の約束は、まだ取り消されていません」
「うん。だから、自分で聞く」
アデルミラは、自分の仮面を外して裏へ返した。
ルシアは椅子を寄せた。
「直す時は、どこから見るのですか」
「まず、こっち。見えるひびより、留め具の方が危ない時がある」
少女は、指の爪で小さな金具を動かした。
ルシアは顔を近づけた。
アデルミラが眠ってから、ルシアは証言の紙を出した。
フレイアは、自分が見た場面を順に書いた。ルシアが頷いた所でも、他人に聞いた箇所は分けた。
ランプの光が、封筒の折り目に細い影を作っていた。ルシアは書かれた頁を戻し、エドガーの紙を待った。
エドガーの紙には、空いた欄が多かった。
「ここは、書けない」
彼が言うと、ルシアは紙を引き寄せようとした手を止めた。
「そのまま、渡します」
フレイアも、代わりの言葉を入れなかった。
書いた者が読み直し、名前を記してから、紙は封筒へ収まった。
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