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第74話 今、聞こえた声のために

お読みいただき、ありがとうございます。

どうぞ、今回の旅もお楽しみください。

 裏口を開けると、煙が天井に沿って流れてきた。

 ルシアはその流れを外へ分け、階段へ声を掛けた。

「動ける人はいますか」

「下に! 棚が倒れて!」

 給仕の声だった。

 階段の下で、木棚が斜めに引っかかっている。狭い隙間に小さな仮面が見えた。

 青い針金で留めた側が、壁の灯りを返した。

 天井近くは黒く、下の段だけが薄く見えた。昼には荷物をしまう場所だった棚が、今は人の肩を通さない柵になっている。ルシアは下りる前に、段の縁を一つずつ確かめた。手すりに掛かった布を払い、帰る時に引っかからないよう外へ渡す。アデルミラが受け取り、戸の脇へ落とした。


「そこを離れないでください」

 ルシアはアデルミラへ言い、階段を下りた。

 棚だけを浮かせようとすると、上に載った箱も動く。中で瓶が触れ合った。

 彼女は箱を押さえ、棚を壁沿いにずらした。

 棚の裏で、給仕が息を吸う音がした。瓶が滑った。ルシアは棚を止め、その下の小さな頭が動き終えるまで待った。

 押さえる力と動かす力を分け、隙間が広がるまで待った。

 給仕は子供を抱いていた。片脚を庇い、立ち上がれない。

「上へ出します。子供を、こちらへ」


 アデルミラが、階段の上から手を伸ばした。

 ルシアが途中まで連れてきた娘を抱き寄せる。

 小さな手が、外套へ食い込んだ。

「大丈夫。お母さんの所へ行こう」

「お母さん、どこ」

「ナーダさん、工房にいる。呼んでもらうから」

 娘は泣いたまま、首を振った。

 アデルミラは、無理に返事をやめさせなかった。

 片手を握り、出口へ向けた。

 子供の仮面はずれていなかった。自分が留めた場所を見つけた途端、アデルミラの手に力が入った。娘は痛いと言って指を縮める。

「ごめん。こっち、ゆっくり」

 握り直すと、小さな指が戻ってきた。入口から差す明るさへ向けて、靴の先を確かめながら進んだ。顔を上げすぎると、借りた面の穴へ煙が入った。


 奥から、もう一人の咳が聞こえた。

 給仕が料理人の名を呼ぶ。

 煙を避けて下りた客もいるという。

 ルシアは給仕を階段の外へ運び、残った戸を開けた。

 床に座り込んだ男が、手を上げた。

 指先は壁を探していた。ルシアはその肘を取り、肩へ腕を回してもらった。

 身体を支え、動かす速さを落とす。

「こちらへ。息のしやすい方へ出ます」


 上で、大きな音がした。

 燃えた天幕を支える木材が折れ、裏口の庇へ当たった。

 アデルミラは子供を押し出しかけて、頭を引いた。

 仮面の紐が、割れた木の端に引っかかっていた。

 視界が斜めになる。

 娘の手が、一度離れかけた。


 少女は仮面を外した。

 紐を解く余裕はなく、留め具から引き抜いた。

 顔へ熱い空気が触れる。

 面がなくなった途端、戸口の両端が一度に見えた。傾いた木と、その下に残った隙間。娘を横向きにすれば通せそうだった。アデルミラは頬を見られないよう俯きかけ、足元まで見えなくなることに気づいて顔を上げた。

 今、目を閉じたら子供の靴がどこへ出るか分からなくなる。外にいる人の顔ではなく、空いている石畳を見た。

 外にいた誰かが、何かを言った。

 アデルミラはそちらを見ず、娘を抱いて、戸口を越えた。


 銀の仮面が落ちた。

 戻れば、まだ拾える距離だった。

 少女が半歩だけ振り返る。

「借りた――」

 ルシアが、後ろから彼女の腕を取った。

 木材が落ち、階段の上を塞ぎかける。

 黒く焦げた梁を、魔力が受け止めた。

 その下で、仮面の銀の縁が曲がった。


「先へ」

 ルシアは言った。

「でも」

「あなたも、出てください」

 アデルミラは娘を抱え直し、通りへ進んだ。

 仮面へは、手を伸ばさなかった。


 広場では、水桶が回されていた。

 エドガーが人を呼び、通路を空けている。フレイアは屋根へ上がり、燃えて落ちる部分を道から遠ざけていた。

 ルシアはいったん料理人を運び出し、布の上へ下ろした。

 その頭上では、フレイアが屋根の縁へ片膝をついていた。瓦の下から煙が噴くたび、落ちる破片の向きを変える。道へ落とせば水を運ぶ人々に当たるため、空いた屋根の内側へ寄せていた。

 エドガーは桶を持つ者と、負傷者を運ぶ者を別の側へ誘導した。声を張り上げても通らない時は、自分で数歩動き、進んでほしい場所を示した。

 ルシアは給仕に、奥の部屋をもう一度尋ねる。

 返事は途切れた。彼にも、誰がどこへ逃げたか全ては分からなかった。


 フレイアが地下の天井を支える間に、ルシアは戸を一つずつ確かめた。

 閉まっていた一つを開くと、客が二人いた。

 名前を聞くより先に、外へ向けて手を伸ばした。

 次の部屋は、空だった。

 それでも一度、呼びかけた。

 声が返らないことを確かめ、戻った。

 階段の途中で、先ほど壁へ寄せた棚が軋んだ。長くここを支えたままにはできない。ルシアはフレイアへ戻ったことを知らせ、入口から人が離れたのを待った。屋根を押さえる力が少し緩むと、内側で鈍い音がした。

 誰もが咳をしていた。水桶を渡す列も途切れ、洗った布を探す声が混じり始めた。食堂の窓は煤で曇り、昼に見た皿の並びはもう見えなかった。


 火が小さくなってから、ルシアは入口の仮面を拾った。

 片側が曲がり、青い石が一つなくなっている。

 地面を捜しかけたが、頭上で木が鳴った。

 彼女は欠けたまま、外へ出た。


 ナーダが娘を抱き締めていた。

 工房から走ってきたらしく、仕事の前掛けをつけたままだった。

 娘の手が離れると、アデルミラは、自分の手のひらを見た。

 針金でつけた小さな傷に、煤が入っていた。

 ナーダが何か言っていたが、少女には最初、言葉が聞き取れなかった。娘の頭を抱く手と、前掛けの皺だけがはっきり見えた。

「ありがとう。聞こえる?」

 頷くと、喉が痛んで咳が出た。返事をしようとしてもう一度咳き込み、ようやく、自分も煙を吸っていたのだと思った。


 ルシアが、壊れた仮面を持ってきた。

 少女は顔を上げた。

「ごめん」

 エドガーに向けて言った。

 彼は品を受け取ったが、すぐに傷を数えなかった。

「怪我は?」

「分からない」

「じゃあ、まずそれを見てもらえ」

 フレイアが、濡らした布を持ってきた。

 アデルミラは受け取り、顔を拭いた。


 巡回兵が二人、近づいた。

 兵士の目が、少女の素顔から、エドガーの手の仮面へ移った。

「その品の持ち主は?」

 アデルミラの肩が固くなった。

 給仕へ事情を聞いていたルシアが、隣へ戻る。

「私たちが一緒に借りました。書類と、起きたことを説明します」

 少女は、逃げるために足を引きかけていた。

 ルシアが隣に立ったままなのを見て、同じ場所へ足を戻した。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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