第73話 借り物を返す時刻
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
「明日も、同じ品を出す」
職人頭は言った。
「ナーダが来る時に、一緒に来い」
「銀の仮面じゃなくても?」
「試すのは、手だ」
アデルミラは、机の上の蝶番を見た。
曲がったまま、そこにある。明日には片づけられているのではないかと心配だった。
「触っていい道具も、教えて」
「来た時に説明する」
少女は頷き、青い仮面を鞄へ戻した。
職人頭は蝶番を小箱へ収めた。蓋に短い印を書き、引き出しの手前へ置く。アデルミラは小箱が収まった場所を覚えるように見ていた。
ナーダは作業台へ戻る前に、朝、待ち合わせる入口を教えた。少女は曲がる角を尋ね直し、自分の知っている店の名で道を確かめた。
外へ出ると、まだ返却の刻限までは間があった。
アデルミラは、通りの硝子窓へ自分を映した。
銀の縁が光り、知らない少女が立っているように見える。硝子の継ぎ目を跨ぐと、その顔が細く伸びた。少し横へ動けば、元に戻る。少女は一歩だけ行ったり来たりしてから、ルシアに見られていることに気づき、窓から離れた。
借りた面に合わせて姿勢を変えると、いつもの外套まで違う物に見えた。それでも袖口の擦れた所は残っている。アデルミラはそこを引っ張って隠すのをやめた。
「もう、返す?」
エドガーに尋ねた。
「すぐなら、今戻れる。約束の時刻まで着けていてもいい」
「もう少し、着けたい」
「ああ。時間だけは守ってくれ」
少女は、ルシアと歩き出した。
前から来た男が道を空ける。反射的によけかけたアデルミラも、足を止めた。
どちらへ行けばよいか分からなくなり、ルシアと顔を見合わせる。
「真ん中を歩くのは、練習が要るね」
「私は、さっき端を歩こうとして失敗しました」
少女が笑った。
そのまま二人は、端にも中央にも寄りきれぬ所を歩いた。
台車が来ると、エドガーが先によけた。二人とも慌てて彼の後ろへ入り、車輪が過ぎると、どちらからともなく笑った。
木の仮面のルシアには、道を空けない者もいた。少女はそのたび歩幅を緩めた。二人で並べる場所まで進んでから、また話し始めた。
「ルシアは、いつまでここにいるの」
「証言を受け取ったら、戻る道を決めます。聞き取りの日に遅れないように」
「もっといればいいのに」
ルシアは手元の鞄を見た。
滞在の許可とは別に、戻る期限の紙が入っている。
「自分で延ばせる約束ではありません」
「レイさんに頼んでも?」
「頼む相手が違います」
答えてから、少し間を置いた。
「戻らなければならない理由も、なくなりません」
アデルミラは、仮面の縁をなぞった。
「盗んでたら、私も戻れなくなってたかな」
「工房へは、来にくくなったでしょうね」
「明日の蝶番、触れなかったかもしれない」
広場では、授与式の支度が進んでいた。
軒から軒へ飾り紐が渡され、店先の天幕の上に灯りが下がっている。
フレイアが、返却用の箱を取りに宿へ戻った。三人は井戸のそばで待つことにした。
食堂は角地にあり、客席を覆う天幕は細い横道へも回り込んでいた。裏口の低い庇と、天幕の支えが近い所で重なっている。
食堂の窓からは、まだ蜂蜜の匂いがした。
井戸には蓋が半分掛かり、脇の台に空の桶が並んでいた。エドガーは荷物を足元へ置いた。アデルミラは井戸の縁へ腰を寄せ、銀の面を外さずに通りを眺めた。
「箱が来たら、ここから一緒に返しに行く」
彼が言った。アデルミラは頷き、遠くの鐘楼を見た。針はまだ約束の時刻に届いていない。もう少しだけ、と口にできる時間が残っていた。
「今日のこと、寝る場所の子たちに話そうかな」
アデルミラが言った。
「菓子のことですか」
「それも。明日、仕事を試せることも」
「聞かせたいのですか」
「うん。でも、駄目だったら、また聞かれる」
少女は井戸の縁に、指で丸を描いた。
「どうだったって。だから、上手くいってからの方がいいかな」
井戸の水音に混じって、軒下で金具を打つ音がした。授与式の飾り板を取りつける職人のそばで、見習いらしい者が釘を渡している。一本を取り落とすと、職人は怒鳴る代わりに、通りへ転がらないよう靴で止めた。
アデルミラは、落ちた釘を拾う手元まで見送った。明日は自分も、何かを落とすかもしれない。その時に、拾う間をもらえるだろうか。
ルシアは、明日は成功すると言いかけた。
蝶番を直す手を、まだ見ていなかった。
「今日、約束できたことだけなら、今日話せます」
「それもそうか」
風が吹いた。
頭上の飾り紐がたわみ、灯りの一つが軒へ寄る。
布が揺れ、内側の火へ触れた。
誰かが、あっ、と声を上げた。
赤いものが布を走り、天幕へ落ちた。
最初は、飾りの色が裏返っただけのように見えた。けれど布の端が縮み、黒い縁から細かな火が散った。近くの男が竿を伸ばした時には、灯りを繋ぐ紐まで燃え始めていた。
椅子の脚を引く音が、窓の内側で重なった。井戸の前にいた者が振り向き、後ろから来た者とぶつかる。エドガーが空の桶を台から下ろし、井戸の口に置かれた荷を動かした。
「水を!」
井戸へ人が駆け寄った。
ルシアは立ち上がり、落ちる飾り灯を空中で受け止める。燃えた布を通りの空いた石畳へ下ろし、足を止めた者を火から離した。
入口の天幕が燃えていた。
窓の内側にも、煙が入っている。
食堂の客が、椅子を押しのけて出てきた。
アデルミラは、裏口の方へ走った。
ルシアが呼ぶと、曲がり角で止まり、指を差す。
「こっちに階段がある。ナーダさんの子、あの給仕と入った」
扉の向こうで、咳が聞こえた。
その後に、小さな泣き声がした。
アデルミラは手を掛けかけた扉から指を離した。昼に見た籠と階段が、頭に浮かんでいた。あの時は狭いと思わなかった通路が、今は子供を連れ出すには細すぎるように感じられた。
「泣いてる。まだ、中にいる」
「聞こえています」
ルシアの返事は短かった。少女の肩を押して退かせるのでなく、扉が開く範囲を指で示した。アデルミラはそこからよけ、通りへ声を掛けるために振り返った。
ルシアは少女の横へ立った。
扉を押す前に、熱と煙の流れを確かめる。
「まず、私が見ます」
アデルミラは頷いた。
銀の仮面の下で、唇を固く結んでいた。
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