第72話 名前を聞いた職人
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
アデルミラは、曲がった金具を指で確かめた。
指先へ、ざらついた縁が引っかかった。留め紐は切れていない。けれど金具が傾いたまま引かれ、穴の片側にだけ力が掛かっていた。少女は自分の鞄を膝へ置き、小さな部品を落としても石畳の隙間へ入らないよう、布を広げた。
穴の縁が薄くなっている。無理に閉じれば、今度はそちらが割れる。
「今日は針金で留める。金具は、取り替えた方がいい」
「今、壊れてるの?」
子供が尋ねた。
「少し。落ちないようにはするよ」
少女は布の切れ端を挟み、針金の端を頬と反対の方へ倒した。
子供が顔を左右へ振る。
仮面は落ちなかった。
「痛くない?」
子供はすぐに頷きかけ、頬へ手を当てた。
「こっちは、少し」
アデルミラは紐を僅かに緩めた。母親に面を支えてもらい、折った布の位置を動かす。今度は、子供が自分から顔を横に向けた。
「もういい」
「走って試さなくていいよ。あとで、お母さんに見てもらって」
少女は余った針金を曲げて鞄へしまった。急いで立ったために落としかけた布を、ルシアが拾った。受け取る時だけ、アデルミラの口元が緩んだ。
母親は、直した所を近くで見た。
深緑の仮面の顎に、白い磨き粉が残っている。
「いつから、工房に?」
「働いてない。自分のが、よく壊れるから」
アデルミラは青い仮面を見せた。
母親は銀の方へ目を戻さず、ひびを跨いだ針金を見ていた。
「私はナーダ。磨きの仕事をしてるの。あなたは?」
少女の指が止まった。
「アデルミラ」
「材料と手間で、これくらいかしら」
前掛けの小さな袋から、銅貨が二枚、差し出された。指の節にも磨き粉が白く入り込んでいた。ナーダは袋を口で引いて締め直し、もう片方の手は娘の肩へ置いたままにしていた。
アデルミラは受け取る前に、金具をもう一度確かめた。
「本当に、取り替えてね。ずっと持つわけじゃない」
「分かった。今日の仕事が終わったら」
ナーダが言うと、少女はようやく銅貨を受け取った。
日没の授与式に、磨いた品を届ける仕事が残っているという。
ナーダは娘を、先ほどの食堂の裏口へ連れていった。親類の給仕が、仕事の間、預かってくれるらしい。
「お母さんが来るまで、通りへ出ないこと」
「うん」
娘は、直した金具をもう一度触ってから、給仕と中へ入った。
裏口の内側には、空の籠が重ねられ、下へ続く階段の手前に荷物を置く棚があった。給仕は籠を足で押しのけ、子供を戸の奥へ通した。ナーダは食事のことを二言三言頼み、仕事が済めば迎えに来ると重ねて言った。
アデルミラは、閉じた戸を見ていた。さっき自分が触った金具を、子供はまだ指で確かめていた。直した物を持つ人が、そのまま自分の見えない所へ歩いていく。銅貨の重さと一緒に、そのことが掌へ残った。
ナーダは戻り、アデルミラへ言った。
「修理の仕事を探すなら、工房へ来てみる?」
「雇ってくれるの?」
「私には決められない。手を見てもらうことなら、頼める」
アデルミラは、受け取った銅貨を握った。
ルシアへ顔を向けかけ、自分で工房街の方を見た。
「行ってみたい」
ナーダが頷いた。
ルシアは、横へ並んだ。
レーヴェ工房の本店は、細い通りの奥にあった。
正面の棚には仮面が並び、その下に留め具と紐の見本が置かれている。表通りの店より窓は狭く、奥からは、硬い物を擦る音が絶えず聞こえた。品を美しく見せる灯りの後ろには、粉で曇った仕切り窓があった。
アデルミラは入口で靴底を擦った。ナーダが先に戸を押さえる。銀の仮面へ声を掛けようとした受付は、彼女の前掛けを見て、奥の作業場への道を空けた。
エドガーが、納品の控えを示し、夕方の返却窓口をもう一度尋ねた。
「同じ工房だったのか」
「支所からの品ね。担当は奥にいるわ」
ナーダが彼を案内し、アデルミラは展示棚の前で待った。
値札がついていた。
少女は、自分が着けている品を捜そうとしてやめた。
代わりに、横に置かれた裏側の見本を覗いた。
「紐の穴、こっちへずらしてる」
「頬骨へ金具が当たらないようにしてるの」
戻ったナーダが言った。
「顔の形は、皆違うから」
アデルミラは自分の頬を触った。
痕がつくのは、我慢するものだと思っていた。
見本には同じ形の穴が三つ並び、使わない穴は小さな栓で塞いであった。少女は爪を近づけたが、触れる直前で止めた。
「裏も、売る時に見せるの?」
「合わせる時にね。外側だけ見て決めるお客もいるけど」
「見てもらえばいいのに」
「だから、こうして置くのよ」
ナーダは見本の台を、少し手前へ向けた。飾りのない裏側が、通りからも見えるようになった。
職人頭は、奥で蝶番を選り分けていた。
ナーダが少女を紹介すると、男は顔を上げ、銀の仮面を見て丁寧な声になった。
「修理のご依頼でしょうか」
「仕事を探してる。直すことを、試させてほしい」
「お勤め先は?」
「ない」
少女は青い仮面を出した。
「着けてるのは、借り物。私のは、こっち」
男は、青い方を見たまま黙った。
奥の棚には、客から預かった品が並んでいる。
「客の品を渡すには、保証が要る」
「最初から宝石を触らせてとは言ってないわ」
ナーダが言った。
「この子は娘の金具を直した。応急処置だと、先に説明もした。練習用を一つ、見てもらえない?」
「直せることと、預けられることは別だ」
「だったら、直せるかどうかを先に見ればいいでしょう」
職人頭は、引き出しを開けた。
曲がった蝶番と、割れた樹脂片を机へ置く。
「客の品ではない。これなら触らせられる」
アデルミラが一歩近づいた。
机の傷には、細かい粉が詰まっている。たくさんの手が、同じ場所で何かを直した跡だった。
その前の椅子へ、座れるかもしれなかった。
少女は立ったまま蝶番を眺めた。すぐに力を掛けたくなる曲がり方だったが、脇にある樹脂片には、押し潰したような白い筋が走っていた。自分の持つ刃物で足りるのか、何を先に尋ねればいいのか。考えることが幾つも浮かび、何でも直せるとは言えなくなった。
ルシアは後ろで待っていた。代わりに出来ると言ってくれなかったことが、今は助かった。
エドガーが奥から戻った。
試着品は十八時の鐘までに返して、傷の確認を受ける約束だと伝える。
アデルミラは椅子の背から手を離した。
「今日中には、できないかもしれない」
「急いで壊すより、明日でいい」
職人頭は言った。
「採用を決めたわけではないぞ。試すだけだ」
少女は銀の縁へ触れた。
「明日は、これじゃない」
青い仮面を机の上に置く。
「これを着けて来ても、同じことを言ってくれる?」
男は、返事をする前にナーダを見た。
ナーダは何も言わなかった。
アデルミラも、目を逸らさずに待っていた。
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