第70話 借りた銀の縁
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
宿の受付は、木の仮面を見て筆を置いた。
戸口には厚い敷物があり、通りの砂を踏んだ靴が、その上だけ音をなくした。壁に並ぶ客室の鍵は磨かれている。鍵札の文字へ目を近づけるより早く、男の視線がルシアたちの顔を順に辿った。
「お泊まりではない方は、食堂の利用をお断りしています」
「我の客だ。部屋へ上がる」
フレイアが宿の鍵を示した。
男は帳面をめくり、来客の名を書くよう求めた。ルシアは自分の許可票を出す。アデルミラが名乗る間、男の目は青い面から離れなかった。
「お食事は?」
「部屋へ持ってきてくれ」
それには、拒む返事がなかった。
エドガーは卓の前にいた。
箱から出した仮面と留め具を数え、納品書の欄へ線を引いている。三人が入ってくると手を止めた。
「ルシアか」
「はい。証言をお願いしに来ました」
「レイから話は聞いてる。昔の俺と会ったことがあるんだな」
「あります」
エドガーは椅子を引いたが、親しげには笑わなかった。
「俺には、あの頃のことは分からない。今聞いた話を、見たこととして書くつもりはないぞ」
「記録官も、覚えていない部分を補わないようにと言いました」
「なら、そこはそう書いてくれ」
ルシアは頷いた。
アデルミラは扉のそばに立ったままだった。フレイアが隣の椅子を少し動かすと、少女はその端へ座った。
薄いスープとパンが運ばれてきた。
アデルミラは代金を尋ねてから匙を取った。フレイアは自分が頼んだ分だと答え、先ほどの話をエドガーへ伝える。
少女が盗もうとしたことも、省かなかった。
「それで、この見本を借りたいと?」
エドガーは布の掛かった仮面を見た。
「持ち主に聞いてほしい。勝手に貸す約束はしておらぬ」
彼はフレイアへ一度顔を向けた。
何も言わず、荷に添えられた紙を開く。
「試着用の見本だ。本店へ届けた時に、聞いてみる」
「断られたら?」
アデルミラが尋ねた。
「借りられない」
少女は匙を動かした。
その返事が気に入らなくても、食事を取り上げられることはなかった。
レーヴェ工房の本店では、荷を受け取る係が一つずつ品を並べた。
通りへ開いた窓には完成品が飾られ、奥の壁には彩色前の木型が掛かっている。高い天窓の光が、アデルミラの見つめる銀の縁を照らしていた。
留め具の数。仮面の縁。輸送中の擦れ。
エドガーは相手の確認が終わるまで箱を閉じず、受取の印が押された控えを受け取った。
「こちらの一枚を、展示用に借りられるか聞きたい」
紺地に細い銀の縁を持つ仮面を示す。
目元の青い石は三つだった。アデルミラは指を伸ばさず、光の動く表面を見た。
「着けるのは、この人。買うためじゃない。街で使った時の感じを確かめたいという」
係は少女を見てから、エドガーへ顔を戻した。
「取引先へお見せするのでは?」
「違う。だから聞いてる」
係は奥の帳面を調べ、展示担当を呼んだ。
出てきた女は、少女の目と面の穴の間隔を見た。裏の留め紐を引き、傷がないことを示す。
「これなら調整できます。一般の方への着用展示も受けています。ただし運搬を請けた方の立ち会いで。お名前を」
「アデルミラ」
少女が答えた。
女が名を書き留める間、アデルミラは青い石を三つ、端から見直した。
「返却は、夕方六時の鐘まで。傷がついたら、隠さず知らせてください」
女は小さな試着札を留め紐につけた。
エドガーが貸出票を受け取る。
「壊れた時は、俺が窓口になる。逃げずに、一緒に説明しに来てくれ」
アデルミラは頷いた。受け取ろうとして両手を出し、まだ着けている青い面へ触れた。
「ここで替えてもいい?」
「宿へ戻ろう」
エドガーは空いていた箱へ布を敷いた。少女は銀の面をそこへ置いたが、受付を離れるまで、一度も目を離さなかった。
着け替えは宿の部屋で行った。
人前ではなく、閉めた扉の内側。アデルミラが青い面へ手を掛けると、ルシアは窓へ顔を向けた。
紐が擦れる音がして、しばらくしてから、見ていいよ、と声がした。
「軽い」
少女は頬の辺りを指で押さえていた。
銀の縁より、そちらの違いの方が気になるらしい。首を動かしても、面が遅れて揺れなかった。
「ここ、当たらない」
「紐を締めすぎるなよ」
エドガーが言った。
フレイアは古い面を包む布を差し出した。アデルミラは自分で包み、鞄へ入れた。
「置いていかぬのか」
「返したら、これを着けるから」
ルシアは自分の木の面へ触れた。
白い面は鞄の中にある。旅人札は木の面についたままだった。
階下で、受付が立ち上がった。
「お出かけですか。お帰りにはお席を――」
アデルミラが足を止める。
「さっき、泊まってない人は使えないって言ったよね」
男は試着札を見つけた。
口元の笑みが薄くなった。
「お連れの方でしたね。失礼しました」
「仮面の方を覚えたの?」
「こちらにも大勢のお客様がございますので」
男はフレイアへ目を向けた。
彼女は少女より先に答えなかった。アデルミラが小さく息を吐き、扉を押した。
通りでは、何人かが道を譲った。
若い給仕が店先から声を掛け、巡回兵が会釈した。アデルミラは最初、後ろの誰かに向けられたものだと思ったように振り返った。
ルシアたちしかいなかった。
少女の歩みが遅くなった。
「どうですか」
「まだ分かんない。嬉しいって言ったら、返す時に手を離したくなくなりそう」
軒には、式典用の飾り灯が積まれていた。
仕事をしている者たちは、通りの仮面より、灯を吊るす紐を見ていた。銀の縁に気づかず、そこを空けてと声を掛ける者もいる。
アデルミラは黙ってよけた。
少女は、角の店を指した。
窓の中で、蜂蜜を塗った菓子が光っていた。
「あそこで、仕事を探したことがある。食器洗いでもいいって言ったの。物がなくなると困るからって、帰された」
ルシアは裏口と、表の広い扉を見比べた。
「今日は、何をしたいですか。アデルミラ」
少女は窓を見たまま答えた。
「普通に座って、注文して、食べてみたい。まず、それだけ」
エドガーが店先の献立を見に行った。
フレイアは横に並んだが、二人で笑い合うことはなかった。値段を確かめ、席を尋ねる短い声だけが聞こえた。
「入れるぞ」
アデルミラは試着札を直し、扉へ向かった。
給仕は銀の縁を見てから、四人へ道を空けた。
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