第69話 名前を呼ぶ前に
運搬車が門から出てきた。
車の側面には工房の印が焼きつけられ、角には真鍮の当て板があった。荷を覆う布の下から、同じ大きさの箱が段になって覗いている。アデルミラが欲しがる一枚も、今はそこに並ぶ品の一つなのだろう。
前に二人、後ろに二人。左右にも衛兵がついている。アデルミラは軒の陰で、荷車が道を曲がるまで数えていた。
「次の角。あそこにある空の車を押せば、列が止まる」
「持ち主には話したのですか」
「話すわけないでしょ」
空の荷車には、野菜の葉が残っていた。すぐ横の店から、男が次の籠を持って出てくる。
「車が壊れたら、その人が仕事に使えなくなります」
「魔法で止めれば壊れないんじゃないの」
「ぶつけずに止めるのなら、初めから――」
「手伝わない理由ばっかりだね」
ルシアは返せなかった。
衛兵を退かせる方法を考えるのは簡単だった。その間、荷車の持ち主が何をするかまで決めることはできない。
「ルシア」
名前を呼ばれ、顔を上げた。
フレイアが通りの反対側にいた。白い仮面に旅人札をつけ、工房の包みを片手に持っている。
アデルミラが壁から離れた。
「誰?」
「私が訪ねてきた方です」
フレイアは道を渡ったが、二人の逃げ道を塞ぐ所には立たなかった。
「工房で我の名を出したそうだな」
「宿場で、見本を運ぶ商人と一緒だと聞きました。それで店を尋ねました」
「案内の者に、旅人の魔族が捜していると聞いた。何を見ておった」
アデルミラは運搬車から視線を外した。
「何もしてない」
「それは見ておる」
フレイアはルシアへ顔を向けた。
ルシアは荷車を使う話を、そのまま答えた。少女が小さく息を吐く。
「告げ口しに来たの」
「私は、手伝わないと決める前に、ここまでついてきました」
「だから?」
「アデルミラ。期待させたのは、私です」
少女の顔がこちらを向いた。
「止めるなら、そう言ってよ」
「盗みには加わりません」
車の後輪が角を曲がった。
アデルミラは追いかけなかった。青い仮面の縁を握り、荷車が見えなくなるまで立っていた。
フレイアは、通りの向こうの小さな広場を示した。
「そこなら、荷の邪魔にならず話せる。そなたも来るか」
「説教を聞いたら、ご飯でも出る?」
「腹が減っておるなら、そう言えばよい」
少女はすぐには動かなかった。
ルシアが歩き出すと、少し離れてついてきた。
◆
広場の端、人の声から離れた長椅子に日が当たっていた。
背後の壁には面を掛けるためらしい鉄の鉤が並んでいたが、今は一つも使われていない。石畳の継ぎ目には薄い草が生え、椅子の脚の一本だけ、沈まぬよう平たい石を噛ませてあった。
アデルミラは座る前に、その脚を靴先で確かめた。ルシアが見ていると、ここは時々傾く、とだけ教えた。広場の飾りより、少女はそういう所をよく知っていた。
フレイアは座らず、ルシアの差し出した書類を読んだ。戻る期限と、証言を求める相手の欄を確かめる。
「我が見たことは話す。貴様に都合のよい内容とは限らぬ」
「それでも、お願いします」
紙が返ってきた。
ルシアは折り目を揃え、鞄へ戻した。
「以前、誰かを試すために追い込むなと、言われました」
「ああ」
「あなたは、今もそうしていないのですか」
フレイアの手が止まった。
アデルミラが、二人を交互に見た。
「してしまった」
フレイアは声を落とした。
答えるまでに、少し間があった。
「話をしてから決めると約束した相手の声を聞かず、人を殺した。王だった。腹が立ったからだ。エドガーも、ほかの者も、危険にした」
ルシアは待った。
続くはずだと思った理由は出てこなかった。
「だから、私に止めろと?」
「我がしてよかったことにはならぬ。貴様がしてよいことにもならぬ。ただ、我に言われたからというだけで、決めるな」
アデルミラが椅子の端へ座った。
「王様を殺せる人が、仮面一つでそんなに言うんだ」
フレイアは少女を見た。
「一つくらい、とは言えぬ。さっきの車の持ち主は、何も知らぬまま巻き込まれる。そなたが逃げても、あの者が捕まるかもしれぬ」
「捕まるって決まってない」
「決まってはおらぬ。何も起きぬとも決まっておらぬ」
ルシアは運搬車が消えた角を見た。
「私なら逃げられる、と先に考えました。アデルミラは、逃げた後どこへ行くのですか」
「同じ所には戻れないんじゃない」
「別の寝る場所は?」
「知らないよ。高い仮面を着けてたら、今とは違うかもしれないでしょ」
少女は仮面の紐を引いた。
痛かったのか、すぐ緩める。
「どう違えば、着けてよかったと思えますか」
「……まず、話を聞いてくれるとか」
広場の端で、店の主人が銀の仮面の客へ椅子を出していた。
アデルミラはその方を見なかった。
「ここで働きたいって言ったことがある。何ができるか聞かれる前に、棚の物に触るなって言われた。こっちは何もしてないのに」
「今日、盗もうとしたこととは別なのですね」
「別だよ」
返事は強かった。
「何もしてなくてもそう扱われるなら、したって同じじゃない」
「その店の人には、同じに見えるかもしれません。車の持ち主には違います」
ルシアが言うと、アデルミラは足元を蹴った。
すぐに納得する様子はなかった。ルシアも、言い負かせば高い仮面が要らなくなるとは思わなかった。
「態度が変わるか、試したい気持ちは、まだありますか」
「ある。やめろって言われたら消えるの?」
「消えませんね」
フレイアが、包みの紐を持ち直した。
「借りられるか、尋ねることはできる。我らが運んできた見本に、試着する品がある」
「私でも?」
「持ち主が決める。断られることもある」
アデルミラは、目を伏せた。
青い面の針金に、彼女の指が触れる。
袖口は何度も折り返してあり、縫い足した布だけ色が少し濃かった。手の甲の細い傷も、面のひびを跨ぐ金属も、遠目にはただ古びて見える。
近くで見ると、針金の曲げ方は左右で違った。割れた場所に合わせて、同じ形にはしていない。フレイアがその留め方を見た。
「それを直したのは、そなたか」
「そう。新しいのは買えないから」
「紐が切れる方ではなく、裏へ荷重を逃がしておるのだな」
「前に、穴ごと欠けたから。次はこっちに通した」
少女は面を外さず、指で裏の位置を示した。
ルシアは、その指を見た。針金を曲げたらしい痕がある。
「ほかの面も直せるのですか、アデルミラ」
「同じ壊れ方なら。違うのは見ないと分かんない」
初めて、仮面の値段以外の話が続いた。
フレイアは宿の方角を告げた。
「証言の話もする。腹が減ったなら、先に何か食べよう。ついてくるかは、そなたが決めよ」
ルシアは立ち上がった。アデルミラはまだ座っていた。
「ルシアも、来てほしいの」
「はい」
「何をするか、また調べるため?」
ルシアは言葉を選んだ。
「アデルミラが、何をしたいか聞きたいです」
アデルミラは立った。
「まず、借りられるか聞く」
「はい」
少女が歩き出してから、ルシアも続いた。
工房の運搬車はもう見えなかった。次の角で、どちらへ行くかを少女が尋ねた。




