第68話 白い仮面の旅人
名を書く欄は、一行しかなかった。
ルシアは筆を持ち、入国票へ自分の名を書いた。
記入台は門楼の脇へ据えられ、肘の当たる所だけ木が滑らかだった。窓の外では、石を積んだ高い壁の内側へ荷車が一台ずつ進んでいる。轍が深くなる所に板が渡され、車輪の音が途中だけ軽くなった。剣の国で何枚も書き直した説明とは違い、書くことに迷う余地はなかった。
「滞在の目的は」
「人を訪ねます。証言をお願いするためです」
出発を認めた書類を重ねて出すと、係員は戻る期限を確かめた。
許可票には、レイに会い、証言を受け取って戻る、と書かれていた。ルシアはその紙を、期限が見える向きでしまった。
「こちらで長く滞在する予定は?」
「ありません。この日までに戻ります」
係員はその日付を書き写し、本人の許可票を返した。
次に渡されたのは、白い仮面だった。
「公の場では、顔を覆ってください。目や角に当たるなら、今直します」
ルシアは紐を後頭部で結んだ。角の下へ通すと、少し傾いた。係員が結ぶ場所を示す。
「旅人の印は、この小札です。別の面を買う時は、店で同じように留め替えてください。票は別に携帯を。小札だけで身分を証明できるわけではありません」
額の横で白い札が鳴った。
仮面は鼻の辺りだけ浅く盛り上がり、目の穴の縁が丸く削られていた。息を吐くと頬へ温かさが戻る。普段なら見えていた真横の指先が、首を回さなければ見えない。
ルシアは鞄の留め金を探す手を止め、一度、自分の足元を見た。顔を隠すだけの品でも、身体の使い方まで少し変わるらしい。
見本の仮面には、ほかの印もあった。工房の所属や職歴の印は、勝手につけてはいけないという。
「では、高い品を買っても、仕事の資格は増えないのですね」
「もちろんです」
係員は、当然のことを聞かれた顔をした。
門の内側では、銀の縁を持つ者が通るたび、荷を持つ人が道を譲っていた。
『人の価値は、顔ではなく中身によって決まる』
門の文字を読み終える頃には、銀の仮面は人の間へ消えていた。中身を知るために話しかけた者は、見えなかった。
ルシアは、レイの名を書いた紙を手に歩いた。
工房の見本を運ぶ商人と一緒だと、途中の宿場で聞いている。そこから先は自分で尋ねるしかなかった。
道具屋は親切だった。曇り止め、紐、薬を含ませた布。必要かどうか考えている間に、卓へ次の品が並んだ。
「レーヴェ工房の荷を受け取る商人について――」
「ご滞在が長いなら、替えの紐も一つ」
尋ねたことには答えがなかった。
店を出て細い路地へ入ると、二人の男が壁際から離れた。
「買い物帰りか。金を分けてくれよ」
「まだ買っていません」
「だったら、残ってるだろ」
一人の手が腕を掴んだ。
ルシアはその手を外し、半歩下がった。もう一人の腰から短剣が出る。
指先の雷を、男たちの前の石へ落とした。
乾いた音とともに小石が跳ねた。短剣が地面を打ち、二人が壁へ身体を寄せる。
次の雷を作りかけた手を、ルシアは開いた。
もう短剣は握られていない。倒れた者が、立ち上がろうとしていた。
それが分かっていて何をしたのか。記録官に聞かれた声が、ここでも耳に残っていた。
「刃を拾わないでください」
男たちは横をすり抜け、路地を走っていった。
ルシアは追わず、表通りの巡回兵を呼んだ。
「襲われました。短剣がそこにあります」
「相手の特徴は」
仮面の色と、背丈を言った。片方の紐に結び目が二つあったことも。
「怪我は?」
「私にはありません。二人は、石の欠片に当たったかもしれません」
兵士は彼女の許可票を読み、雷を落とした場所を確かめた。路面の傷についても書き留める。
逃げた男の仮面が一枚、樋の下へ落ちていた。ルシアが目を向けると、兵士は袋へ入れた。
「これは預かる。ほかに思い出したことがあれば、この詰所へ」
指された方角を、ルシアは紙へ加えた。
自分の説明だけで済まないことが、また一つ増えた。
◆
中古の仮面を扱う店は、表通りから二本離れた所にあった。
木の面は、白い面に勧められた飾り紐より安かった。
棚の奥では、洗った紐が短い棒へ掛けて乾かしてある。面の表には前の持ち主がつけた小さな擦り傷があり、内側の布だけは新しく張り直されていた。ルシアがその傷へ触れると、店主は裏返して、割れではないと示した。
「これに替えたいのですが」
店主は裏の留め具を点検し、旅人札を移した。許可票の名前が同じか確かめてから、白い面を紙に包む。
「古い紐は切れやすい。外れそうなら、先に直しな」
ルシアは言われた所を触った。
白い仮面は鞄にある。服も、持っている金も変わっていない。
だが先ほどの道具屋へ戻ると、店主は並べていた品を一つ奥へ寄せた。
「見るだけなら、通りを塞がないでくれ」
旅人札を見せても、値段の説明は始まらなかった。
食堂では満席だと言われた。その後から来た銀の縁の客には、奥の椅子が出された。予約の客だったのかもしれない。確かめようとすると、店員はもう背を向けていた。
「替えたばかりなんでしょ」
石段から声がした。
青い仮面の少女が、膝に肘を置いてこちらを見ていた。仮面のひびを、細い針金が跨いでいる。
「どうして分かるのですか」
「そこの店に、もう一回入ろうとしたから」
少女は立ち上がり、通りの端を歩いた。
運ばれてくる籠を先によけ、店の戸口を空ける。ルシアは後へ続き、行き先を尋ねる前に一緒によけていた。
「私はアデルミラ。あんたは?」
「ルシアです」
「さっき、路地で雷を出したよね。あの二人、ほかの旅人にもやってる」
「あなたは見ていたのですか」
「途中から。兵士に話す前に、逃げればよかったのに」
「話しておくようにと、別の国で言われました」
アデルミラは少し笑った。
ルシアには、その笑いの理由が分からなかった。
「高い仮面なら、同じ店でどう扱われると思う?」
少女が尋ねた。
「今見た客は、席を用意されました」
「私でも、そうなるのかな」
「買って試すのですか」
アデルミラは自分の面へ触れた。
針金の端は、顔へ当たらぬ方へ折り返してある。
「買えるなら、こんなに直さない」
ルシアは言い直す言葉を探した。
少女は答えを待たず、工房街へ続く通りを見た。
「今日、王立工房の品が運ばれる。一本、道が細くなる所があるんだ」
「仕事を手伝うのですか」
「違う。一つ、盗る」
ルシアは足を止めた。
アデルミラは、もう何歩か進んでから振り返った。
「逃げる時だけ手を貸して。人を殺せなんて言わない」
「殺さなければよい、という話では――」
「じゃあ、やめる?」
ルシアは、少女の仮面を見た。
なぜそこまでして店へ入りたいのか、まだ聞いていない。計画だけ聞くつもりでついていけば、少女には手伝う返事に見える。
「盗むことは、まだ承知していません」
「まだ、ね」
アデルミラは歩き出した。
ルシアも続いた。角を曲がる少女を見失わないよう、歩幅を広げた。




