第61話 誰も手を伸ばさなかった
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
ハロルドの唇が動いた。
エドガーは石畳へ膝をつき、顔を近づけた。名前を呼ばれた気がしたが、荷台から落ち続ける木片の音に紛れて聞き取れなかった。
脇腹の服が濡れている。彼は肩から上着を外し、畳んで傷へ当てた。
「俺だ。分かるか」
男の顎が、わずかに動く。
声を掛けるたび、浅い息が頬に触れた。その息が戻ってくる間を、エドガーは数えてしまった。
「医者を呼んでくれ! こっちだ!」
朱色の外套を着た係員が、倒れた荷箱の向こうにいた。
目は合った。けれどその人は、集まる客を広場の端へ誘導した。脇へ寄ってください、と繰り返している。
「ここに人がいるだろ!」
フレイアが傍らへ屈んだ。
広場へ倒れかかった板を止めていた手に、木屑がついていた。エドガーは上着の下へ視線を落とし、彼女を見た。
「魔法で、どうにかならないか」
フレイアは服の破れた所を確かめた。
「我には、この傷を治せぬ」
「じゃあ、治せる奴を呼んでくれ」
彼女は立ち上がり、いちばん近くの男に声を掛けた。
「医者のいる場所を言え」
「いやあ、俺も今着いたばかりで……」
笑っていた男は、彼女の顔を見て後ずさった。別の女が、広場の先を指した。救護所があると言う。
フレイアは、看板の下にいる係を呼んだ。係は担架を持って数歩近づき、ハロルドを見て止まった。
「この場は劇団の管轄です。搬送の指示が出るまで――」
「先に診ろ」
「私には、診断はできません」
「ならばできる者を連れてこい」
係は誰かを捜すように周囲を見た。
その間にも、エドガーの掌の下で布の濡れる範囲が広がった。
「弟に」
ハロルドの声がした。
「分かってる。ルークだろ。会いに行くんだろ」
男の指が、倒れた背嚢へ向かった。
紐の解けた包みから、新しい靴の片方が覗いている。革にはまだ折り目もなかった。
「靴……」
「ある。ちゃんとあるから」
指が落ちた。
エドガーは声を掛け続けた。胸元を見て、呼吸を待ち、もう一度呼んだ。さっきまで唇から出ていたかすかな音も戻らなかった。
布を押さえる手を、いつ離せばいいのか分からなかった。
担架の係が膝をつき、男の口元と首筋を確かめた。しばらくして、首を横に振る。
「……搬送します」
「どこへ」
エドガーが聞いた時、笛が鳴った。
楽隊の一人が曲を始め、隣の者が遅れて続いた。朱色の外套の男が、広場へ向けて両腕を広げる。
「突然の悲劇にお付き合いいただき、ありがとうございました!」
拍手が起きた。
エドガーのそばにいた女は、手を叩かなかった。担架の上へ移される身体を見て、連れの袖を引いた。だが離れていた客からは、まだ続きがあるのかと声が飛んだ。
「兄弟の再会へ向かう旅人。その行く先に待っていた、思いがけない運命でございます!」
ハロルドが弟と口にしたことを、誰かが聞いていたのだ。
エドガーは立ち上がった。
「運命じゃない。あの馬車の荷が落ちたんだ」
「ええ。そういう筋書きで――」
「誰が御者だった? 何で止めなかった?」
男は声を落とした。
「お客様の前です。お話は裏で」
フレイアはその腕を掴みかけ、止めた。
「遺体をどこへ運ぶ」
「中央劇場の搬送口です。身元の照合をします」
「我らも行く」
「関係者の方ですか」
「街道で会った。家族の名を聞いておる」
エドガーは靴を拾い、もう片方を捜した。荷箱の下に挟まっていたが、引き抜くと破れてはいなかった。
落ちていた包みで一足を巻き直す。その手の甲にも、男の血がついていた。
「これを渡す相手がいる。連れていけ」
衛兵が二人、外套の男の後ろに立った。
「武器を預かる。照合の場へ持ち込むことはできない」
エドガーはフレイアを見た。
ここを抜けるだけならできる。遺体の乗った車は、もう広場の出口へ向かっている。
「日没までだ」
彼は声を低くした。
「どこへ運ぶか確かめる。弟へ知らせる。そのために行く。見物じゃないぞ」
「承知した」
「危ないと思ったら、途中でも出る。お前だけで決めるな」
「貴様もだ」
エドガーは頷き、腰から二丁の銃を外した。剣と一緒に衛兵へ渡すと、武器ごとに札が結ばれた。札の番号を口に出して確かめる。
靴の包みには、手を伸ばさせなかった。
背嚢は遺体と同じ車に積まれた。エドガーが荷の所在を尋ねると、係は本人の持ち物として記録すると答えた。
「その記録を見せてもらう」
男は面倒そうに頷いた。エドガーは靴を自分の荷へしまい、紐をきつく結んだ。
中央劇場へ向かう車を追い、二人は裏道へ入った。
表の音楽はすぐ近くに聞こえるのに、道には濡れた布と木箱が積まれていた。顔を伏せた作業員が、車を押すため場所を空ける。
荷馬車と二頭は預けた場所にいる。引換札があることを、エドガーは歩きながら確かめた。帰る道具までここへ持ち込まずに済んだことだけが、今は救いだった。
劇場の脇には二つの戸口があった。
遺体の車が左へ入る。そこの係が板に何かを書き、車へ細長い札を留めた。
「待て。俺たちもそっちへ」
「照合は右です」
右の通路の先で、外套の男から書類を受け取った役人が二人を見た。
「公演への妨害と、係員に対する威圧」
「身元の照合だと言っただろ」
「あなた方の役柄についても、確認が必要です」
背後の戸が閉じた。
エドガーが振り返ると、衛兵の手が剣の柄にあった。
「すぐに名簿を見せろ。ハロルドという男だ。弟は役者のルーク」
「受付は済みました。待機してください」
フレイアが扉へ手を伸ばした。
エドガーは彼女の袖を引き、廊下の先を示す。格子の向こうに人がいた。一人が、ルーク、と小さく繰り返した。
「知ってる奴がいる」
彼は囁いた。
「そこまで聞く。話ができなきゃ、出る」
役人はその相談に気づかず、札に筆を走らせていた。
案内された部屋には椅子がなかった。壁に古い引っ掻き傷があり、床には水の入った壺が一つ置かれていた。
「次の出番まで、ここで待て」
衛兵が格子を閉めた。
外から錠が掛かる音がした。
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