第58話 忘れられる男、考える岩
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
エドガーは灯りを手にトンネルを往復した。足元の落石をどかし、向こう側まで車輪の通る幅を確かめて戻ると、残った日の高さを見てから、荷台の工具を数えた。
縄は二本ともある。曲がった鉄棒も、削れた当て木も回収した。あとは馬を繋ぎ直せば出発できる。
「話をするなら、水を飲ませてる間にしないか。向こうの宿場まで、明るいうちに着きたい」
「一つならば話せよう」
「長い一つは駄目だぞ」
フレイアが振り向くと、彼は水桶を抱えていた。行くなとも、早く乗れとも言わなかった。
岩は道脇の窪みに収まり、苔の先から雫を落としている。
「僕はどれだけ長くても聞けるヨ」
「我らには足と腹があるのでな」
「それは不便だネ」
エドガーが笑い、水桶を置いた。
フレイアは岩へ向き直った。
「以前、罪人を牢へ入れぬ国を通った」
「逃げちゃわないの?」
「歩くことは禁じられておらぬ。代わりに、人へ触れられなくなる術と、人の記憶から抜け落ちる術を掛けられる」
姿が透明になるわけではない。目の前に立てば顔が見え、声も聞こえる。だが視線を外すと、たった今まで話していた相手のことが途切れてしまう。
フレイアにも、そういう途切れ方をした時があった。
「では、どうして今その話ができるのかナ?」
岩に問われ、彼女は腰の本へ手をやった。
「我は姿を見失っても、術の魔力を感じ取れた。妙なものがいると思って見直す。すると、先ほどもこやつを見た、と少し思い出す。その繰り返しだ」
「忘れなかったんじゃなくて、見つけ直したんだネ」
「ああ。話の全部を、そのまま覚えておるわけではない」
その頃の書き留めも、何が起きたかを辿る手掛かりになっていた。男の声を思い出せる所と、文字を読んで知り直す所は違う。
フレイアは頁を開かず、指を離した。
「刑は七年、すでに六年を過ごしたと男は言った。残りが終われば術を解かれるともな。そこは我が確かめたことではない」
「あと一年、って数えてたのか」
馬の首を撫でていたエドガーが、顔を上げた。
「そう言っておった」
「その人、何をした人?」
「我が聞いたのは、刑を受けた後の話だ」
男は、最初は便利だったと話した。食べ物を持ち出しても、追い掛けてくる者は途中で犯人を見失う。怒鳴られても、相手がよそを向けば、その怒りを誰に向けていたか分からなくなる。
手に入れた物は消えなかった。空になった店の棚も、盗まれた側の損も、元へは戻らなかった。
「だったら、店の人は困ったままだな」
「ああ。男も、それを見ていたと話した」
フレイアは、男が口を開く前にこちらの目を確かめていたことを覚えていた。
彼女が物音へ顔を向けかけると、言葉が早くなった。話を終えるためではなく、向き直らせるために声を上げた。
「そうして人の注意を引いておらねば、聞いてもらったことまでなくなる。男には、そのように思えたらしい」
「なくならないヨ。棚の物は減っている」
「それでは足りなかったのだろうな」
男は通りに物を置き、窓を開け、人の食べ物を駄目にしたとも言っていた。困らせれば、自分へ顔を向ける。謝れば、もう一度話してもらえる。
けれど相手が目を伏せた途端、謝っている男と被害が繋がらなくなる。
「全部、君が見たの?」
「いや。男が我に語った。我が見たのは、話を切り上げようとすると引き留める男だ」
苔の隙間で、小さな虫が向きを変えた。
岩はしばらく黙っていた。フレイアはその沈黙が、人間のため息と同じものなのか分からなかった。
「男は、もっとひどい騒ぎなら忘れられぬと思ったそうだ。人を傷つけようとしたが、触れられぬ術に妨げられたと話した」
「それなら、何も起こらなかったんだネ」
「それまで盗まれた者や、食事を駄目にされた者には、何も起こらなかったわけではない」
フレイアは言い直してから、唇を閉じた。
手帳の男の頁には、店の名が一つもなかった。フレイアは、腰の本へ置いた指を離した。
「最後には広場で名を叫び続けたという。振り向く者はいた。だが、そやつが目を閉じればまた初めからだ」
その時の男の顔までは、思い浮かばなかった。
「悲しい話なんだネ」
岩の声は、先ほど足と腹を不便だと言った時と変わらなかった。
「貴様は悲しくなったか?」
「悲しいっていうのは、どんな感じ? 僕にはそれがないと思うヨ。でも、男は聞いてほしかったんだよネ。それができなかった話だ」
「聞く者はおった。我も、その一人だ」
「そうか。誰も聞かなかった話じゃないんだ」
水桶の底が、石を擦った。
飲み終えたシリウスの脇から、エドガーが空の桶を運んでくる。
「俺は、その男のことは知らない」
彼は荷台へ桶を伏せた。
「今のお前の話を聞いた。昔の俺が何を聞いてたとしても、俺が今知ってるのはそれだけだ」
「うむ」
「その男がどうなったかは、分からないんだな」
「出国した後のことは知らぬ」
岩が、二人の間へ声を挟んだ。
「君たちが僕を忘れたら、今日ここで話したことも、なくなるのかナ?」
エドガーは留め具へ通しかけた縄を止めた。
フレイアは、窪みの縁に積んだ支え石を見た。そこから道まで、重いものを引きずった跡が続いている。
「少なくとも、あの作業をやり直すことにはならぬ。貴様は今、ここにある」
「話は跡にならないヨ」
「我が覚えている分は、我にある。貴様が覚えている分もあろう」
「全部忘れたら?」
フレイアはすぐには答えなかった。
今朝のエドガーは、留め具を最後まで確かめる彼女へ、もう大丈夫だと言った。昔の旅では知らなかった癖を、彼は少しずつ知っていく。
「その先まで我には言えぬ。だが、忘れるかもしれぬから今日の話をせぬ、とは決めなかった」
エドガーが縄を結び終えた。
「そろそろ行けるか?」
「ああ」
彼は岩を見上げた。
「水を飲む間、って約束だったろ」
「そうだったネ。時間はもう終わった?」
「俺たちの今日の分はな」
フレイアは御者台に足を掛けた。岩は今度は引き留めなかった。
「話を聞いた岩なら、道を塞がなくてもなれるんだネ」
「次の旅人にも、都合は聞けよ」
「聞いてみるヨ!」
車輪が溝を越え、荷馬車がトンネルへ入っていく。
振り返ると、入口の光の横に岩の一部が見えた。自分たちが去った後、岩が何を考えたかは聞こえなかった。
フレイアは本を膝に載せ、揺れの収まったところで、今日話した岩の場所を書いた。
山の向こうには、よく踏み固められた道が続いていた。
最初の分岐に、鮮やかな色の看板が立っている。
『あなたの人生に、忘れられない物語を』
エンダーメント、という国の名が、その下に大きく書かれていた。
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