第51話 三人なら始められる
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
「世界を、終わらせてくれって」
男は、乾いた泉を見たまま言った。
エドガーの手が止まった。
「……最後に飲んだ時か」
「そうだよ。腹が減って、誰も来なくて、外では大人が殺し合ってた。あいつらも、こんな国も、全部なくなればいいと思った」
フレイアは水盤の底を見た。
そこに残るものから、男が何を言ったかは分からない。
「願った後、何が起きた」
「水がなくなった」
「少女が枯れろと言ったからであろう」
「だから、俺の願いは届かなかったのかもしれない。届いてる途中なのかもしれない」
男はそこで、急に笑った。
「冗談だよ。そんな顔をするな」
エドガーは笑わなかった。
「どこからだ」
「好きな所からにしろ」
日が傾いていた。
通りを抜ける風が冷たくなり、男は肩をすぼめた。女神像の裏に、屋根の残った部屋があるという。
エドガーは、まだ明るいうちに南の出口まで確かめてから、馬車を部屋のそばへ移した。崩れかけた軒の下は避け、外へ出られる戸口を塞がぬよう馬を繋ぐ。
フレイアは、男が薪を持ってくるのを見ていた。
泉を失った国のことを語った男の指には、棘を抜いた跡があった。
「普段は、何を食ってる」
エドガーが尋ねた。
「森に罠がある。畑の端には、まだ食える物も出る」
「水は?」
「泉以外にもあるさ。村外れの井戸が一本、生きてる」
男は壁際の壺を指した。
フレイアは火をつけた。小さな魔法を見て、男の目が彼女の角へ上がる。
「魔族か」
「見てのとおりだ」
「長く、生きるんだろ」
「人間よりはな」
男はそれきり黙った。
エドガーはパンを三人分に切った。
瓶から赤い物を塗り、フレイアへ渡す。
「苺のジャムだ。嫌いじゃなかったか?」
「我に尋ねるのか」
「知らねえからな」
フレイアは、一度匂いを嗅いで齧った。
甘みの後から酸味が来る。
「よい」
「そりゃ何より」
彼は同じ厚さに塗った一切れを、男へ差し出した。
男は手を伸ばしかけて止め、汚れた指を服で拭いた。
「こんな物、久しぶりだ」
ゆっくり噛んだ。飲み込んだ後も、パンの切り口を見ていた。
フレイアは自分の分を食べ、次の一切れへ手を伸ばしかけた。
男の皿に、もう何もないのが見えた。
手を戻すと、エドガーが残りを切り分けた。
「お前たち、いつまでいる」
男が尋ねた。
「明朝には出る」
「南の道か」
「通れると分かればな」
エドガーは地図を出した。
男は火へ近づき、道ではなく、メルスの文字を押さえた。
「ここに、商人が戻ってくればいい」
「昔は通ってたのか」
「ああ。荷が来て、人が来て、食堂もあった。井戸を直せば、もう一度休める場所になる」
男は指を動かした。
女神像の隣。倒れた門。畑へ続く水路。
場所を知る者の指だった。
「俺一人じゃ、石を運ぶだけで日が暮れる。畑を広げる間に、罠を見に行けなくなる」
エドガーは、否定せずに聞いていた。
「三人なら、始められる」
男が顔を上げた。
「お前は商人だ。物を仕入れて、外から人を呼べる」
次に、フレイアを見る。
「魔法で水路を通せるか。家を起こせるか。何十年かかっても、お前なら見ていられる」
「我に、ここへ住めと言うのか」
「泉のない国を作るんだ」
男は、答えを聞かなかった。
「誰かに願って待つんじゃない。自分たちで作る。昔の奴らにはできなかったことを、俺たちなら――」
「俺は、住まねえよ」
エドガーが言った。
声は大きくなかった。だが男の話は、そこで止まった。
「一晩食っただけで、ずっと残るとは言えない」
「商売になる。ここなら土地だって」
「国の商いを任せられるほどの金も、人脈もねえ。持ってるのは、あの馬車一台だ」
男は彼の背後を見た。
外に停めた荷馬車は、火の届かない場所で影になっていた。
「なら、少しだけでも」
「水を運ぶくらいなら、出る前に手を貸す。だが住むとは約束しねえ」
男の顔が強張った。
エドガーは、フレイアの返事まで先にしなかった。
「我も行く。向かう場所がある」
彼女は言った。
薪が崩れた。
男は火の粉を払わず、二人を見比べていた。
「明日まで考えろよ」
「考えて変わる返事ではない」
「そんなに急ぐのか」
「急いでいなくても、残ると決めたわけではない」
言うと、男の指が地図の端を握った。
エドガーが、破られないよう手を添える。
その手に男の視線が落ちた。
「また、行くのか」
声が変わった。
「どいつも、食える場所がある奴から出ていく。俺に道を聞いて、礼を言って、二度と戻らない」
「人に残ってほしいなら、そう話せば――」
「今、話してるだろ!」
男が立った。
フレイアは、腰の剣へ目を向けた。
錆の浮いた鞘に、手が掛かっている。
「それを抜くな」
男は聞かなかった。
「俺一人ではできないって言ってる。分かるだろ。分かった顔で、どうして行くんだ」
エドガーは地図を畳まず、両手を見せた。
「一緒に次の町まで出るなら、荷台は空いてる」
「何も知らない町へ行って、何をする」
「それは、着いてから探す」
「お前には探す道具がある。馬も、金もある。俺は、ここを離れたら何になるんだよ」
その問いに、エドガーはすぐ答えられなかった。
男の手が、柄を握り直す。
「俺のことを、ここに置いていくな」
鞘が床へ当たった。
エドガーが腰を浮かせた瞬間、男は抜いた刃を持ち上げた。
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