第50話 最後の一口
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
「俺が子供の頃は、像なんかなかった」
男は女神の足元を見ていた。
「ここは麦を量る広場だった。雨が続けば値が上がる。干ばつなら、売る麦そのものがない」
十数年前、メルスには大きな産業も、商人を呼べる道もなかったという。男の家でも、種にする分を食べるかどうかで揉めた。
女神像を造るという布告が出た時、父親は鍬を直す鉄の方が欲しいと言った。
「王は、民の安寧を祈るためと言っていた。誤魔化すつもりだったんだと、父は怒ってたよ。王の頭の中を見たわけじゃないがな」
像ができて間もなく、水が出た。
最初に立った老人の話は、広場にいた者から何度も聞いた。自分が見たのは、その後だと男は断った。
「隣の家の親父は、粉挽きで指を二本失ってた。泉で願って帰ってきたら、五本あった。握って見せられたから、覚えてる」
「他の魔法ではないのか」
「俺には分からない。ただ、あいつが水を口に入れて、指を戻せと言うのは見た」
男は、割れた石板を示した。
水を含んだ後、三十秒以内に願いを言うこと。削れた文字の下には、ほかにも細かな禁止事項が並んでいた。
「何でも、思いどおりに戻ったのか?」
エドガーが問うと、男は首を振った。
「金持ちになりたいと願って、金貨が降った奴がいた。山になった金の下から引き出された時は、まだ生きてた」
「見たのか」
「騒ぎを聞いて走っていった。金貨の山は見たよ。隣国の印がついてた」
後日、盗まれた財宝と一致したとして、その男は捕らえられた。処刑されたと聞いたが、処刑場へは行っていないという。
「ほかにも、働かなくて済むようにと願って、寝たきりになった人がいた。本人が何と言ったかまでは知らない。家族が役所で訴えていた」
男は石板の文字を指でなぞった。
「だから、ここが増えた」
願いを先に紙へ書く。審査を受け、許可を得た言葉だけを口にする。一人につき年に一度。
初めは、病人や食料の足りない家が優先された。読み書きのできない者には代筆がつき、男の家にも穀物が届いたという。
「いい時期も、あったんだ」
彼はそう言ってから、唇を噛んだ。
「それまで全部嘘だったとは、言えない」
泉のそばへ柵が立った。
男が水運びの手伝いをしていた頃、役人が壁へ刻み目を入れた。数日前の線より、水面が低くなっていた。
「願いを叶えるたび、減ったのか」
「そう聞いた。大きな願いの後は、下がり方も大きかったそうだ。俺には量を測る仕事はさせてもらえなかった」
減った分を井戸水で足したこともあった。水盤は満ちても、願いに使える力は増えなかったという。
「泉を増やしてくれと、願った奴もいた。役所が選んだ者を何人か、別の日に連れてきた」
「結果は」
「次に柵の中へ入った時、線はもっと下だった」
なぜ増えないのかは、説明されなかった。
やがて広場は覆われ、許可を持つ者しか近づけなくなった。
男の母親の順番は、三度延期された。遠くから来た馬車は、待たずに柵を通った。
「金を払ったからだと、皆が言った。俺は中身を見てない。でも、母の札に延期の印が増えたことは見たよ」
泉が枯れるという噂が、閉じた広場の外へ出た。
いつ枯れるのか、どれだけ残っているのか。誰も同じ数字を言わなかった。だから自分より前に使われる一口が、急に恐ろしくなった。
男が見た最初の争いは、順番の札を奪うものだった。
次には柵を倒そうとする者が出た。止める兵士が人を殴り、投げた石が別の人へ当たった。
「その後、誰が最初に剣を抜いたかまでは、見えなかった」
彼は膝の上へ手を置いた。
「父が戻ってこなくなったのは、その夜だ」
争いが続くうちに、食料を運ぶ道も塞がれた。
国の配給を頼りに種を買う金を減らしていた家は、すぐ困った。畑を続けていた家も、用水路を壊されれば同じだった。
「耕そうとする者はいなかったのか」
「いたさ。うちの裏の人は、泉なんか当てにしないって、ずっと畑へ出てた。けど、実った麦を兵隊に持っていかれた」
医者が逃げ、鍛冶屋が死んだ。農具は直せなくなり、逃げる家は牛を連れていった。残った者が何もしなかったから国が滅んだ、と言うには、男の話の中には壊れた物が多すぎた。
「祈るだけの奴もいた。俺も、人のことは言えない」
男は乾いた底へ靴先を下ろした。
内戦が始まって三か月ほどの頃、子供が五人、神殿へ忍び込んだ。
警備の者がいない裏口を知っていた。パンを探して町を回るうちに、何度もそこへ来ていたのだという。
底には、まだ水があった。
小さな子がパンを欲しがった。別の子は、死んだ父を返してほしいと言った。
年長の少女が、それだけはやめようと止めた。
「近所で、息子を戻してと願った人がいたらしい。息子は動いたが、話さなかった。数日でまた駄目になったと、その子は言ってた」
「お前は、それも見たのか」
「見てない。あの子が見たと言った。それを信じた」
フレイアは頷いた。死んだ者を戻すという言葉が、何を戻したのかは分からない。
子供たちはまた言い合った。
水を増やせば皆が使えるという案も出たが、年長の少年は、そんなことは役所が試したと怒鳴った。
「怒鳴らなくても、よかったんだ」
男の声が小さくなった。
少女が水を掬った。
揉めている二人の脇を通り、両手を底へつけた。少年が腕を掴むと、少女は振り払った。
「もう、これの取り合いは嫌だって。俺たちまで同じことをしてるって、泣いていた」
水が口へ入った。
パンか、と誰かが叫んだ。戦争をやめてと頼むのか、と別の子が尋ねた。
少女は女神像を見上げた。
「枯れろ」
男はその声だけ、短く再現した。
大きな音がしたという。石が軋み、水が目に見えて減り始めた。
年長の少年も、水へ手を伸ばした。最後の一口を飲み、自分の願いを言った。
男はそこで口を閉じた。
エドガーが続きを待っていると、彼は水盤の亀裂を指した。
「その後は、こうなった」
「泉がなくなれば、争う理由もなくなったのか」
「泉の前を奪う必要は、なくなった。食い物を奪う必要まで消えると思うか?」
エドガーは答えなかった。
井戸を掘り直す者も、別の国へ逃げる者もいた。男は何軒かの家を覚えていたが、誰がどこへ辿り着いたかまでは知らなかった。
「少女は?」
フレイアが尋ねた。
男はしばらく返事をしなかった。
「三日後に、殺された」
器を持っていない手が、何かを握る形になった。
「泉があれば、まだ助かったと叫んでた。あの子を掴んだ大人が。俺は、壁の陰にいた」
「止められなかったのか」
「出ていかなかった」
男は言い直した。
その後、子供たちは散り散りになった。一人が道で死んだのは見た。捕まったという話を聞いた者もいる。残りは知らない。
彼は知らないと言うたび、泉の底へ目を落とした。
「どうして、お前は子供たちの話をそこまで知っている」
エドガーが言った。
男は顔を上げた。旅人の水を飲んだ時より、唇が乾いて見えた。
「少女の腕を掴んだのが、俺だ」
声は低かった。
「水がなくなる前に飲んで、自分の願いを言った。あの年長のガキが、俺だった」
フレイアは女神像を見た。傷の重なる頬には、さっき男が投げた石の粉が残っている。
最後の一口を、何のために使ったのか。その言葉だけが、まだ語られていなかった。
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