第49話 星へ頼むには短すぎる夜
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
丸太の前で、荷馬車の列が止まっていた。
北東へ続く主街道を、土嚢と杭が塞いでいる。地図を持った商人が兵士へ何か訴えていたが、やがて肩を落として戻ってきた。
エドガーは列の後ろで手綱を引いた。
「宿場の話より、手前まで閉じたのか」
兵士が近づいてきた。目の下に隈があり、槍の穂先より先に地図へ目を向ける。
「ここから先は通せない。街道沿いでも戦闘が起きている」
「南へ戻れば抜けられると聞いた。山道の方か?」
「そこは遠回りだが、昨日の巡回では通れた。十日ほど余計にかかる」
エドガーは頷き、地図の別の線を示した。
「こっちの、メルスを通る道は」
「東の脇道か。南の幹道へ繋がる。道幅はあるが、店も宿も当てにするな」
「軍は?」
「巡回からの報告はない。安全だという保証とは違うぞ」
「分かってる」
兵士は地図へ分岐の印をつけた。古い図では消えた橋を渡ることになるという。回り道を描いた指が、途中で震えた。
「休めておるのか」
フレイアが尋ねると、兵士は顔を上げた。
「次の交代が来たらな」
彼女はそれ以上言わなかった。次の馬車が進み、兵士は同じ説明を始めた。
少し戻った道端で、エドガーは荷を点検した。
飼葉。水。乾パン。南の幹道へ出るまでに、補給できなくても足りる量がある。二頭の脚を確かめ、橋の印を地図に書き直す。
「東へ出て、メルスを通り、南へ抜ける。煙が見えたら、その前に戻る」
「了解した」
いつものように勝手に出発しない。フレイアの返事を聞いてから、彼は御者台へ上がった。
その手間を、彼女も煩わしいとは言わなかった。
「メルスという名を、貴様は知っておるか」
「昔、聞いた気がする。願いを叶える泉があるとか」
「その噂で道を選んだのか」
「まさか。戦場を避けて南へ出る道だからだ。泉が本当にあるなら、ついでに見るけどな」
フレイアは畳まれた地図を見た。
日没前、二人は分岐から離れた林の縁で止まった。
道を見渡せる乾いた場所だった。エドガーが馬の世話をしている間に、フレイアは食料袋を開いた。
「その袋は明日の分」
振り向きもせず、声が飛んできた。
「まだ取っておらぬ」
「手は入ってる」
「取ってはいない」
彼女は袋を置き直した。エドガーが今夜の干し肉を二つに分ける。
「もう少し食べたいなら、先に言えよ」
「もう少し食べたい」
「早いな」
「先に言えと申したではないか」
彼は笑って、一切れを足した。
火にかざすと、塩の匂いが強くなった。泉が願いを叶えるなら、こんな手間も要らないのだろうか。フレイアは肉を裏返した。端が焦げ始めていた。
「流れ星に願うって話もある」
エドガーが空を見上げた。
「泉の次は星か」
「国がなくても、星なら見えるだろ」
「遠すぎる。声も届かぬ」
「聞こえるかどうかまでは考えたことねえな」
木々の間には、細かい光が広がっていた。北東の煙はここから見えない。だが見えなくなっただけだと、二人とも知っていた。
「貴様なら、何を願う」
「明日の道が塞がってないこと」
「随分小さい」
「商人には大事なんだよ。……あと、馬が怪我しないこと」
「それは二つであろう」
「一つまでって決まりは、まだ聞いてねえ」
エドガーは薪を足し、火の向きを確かめた。
フレイアは食べ終えた指を拭いた。言おうとした願いが、まだ口の中に残っている。
元に戻れ、と。
それを今の男へ聞かせたら、彼はどういう顔をするだろう。
「記憶のこと、考えてるか?」
先に尋ねられた。
彼女が黙ると、エドガーは火へ目を戻した。
「俺も考える。けど、思い出せない間は、旅もやめて待てってのは困るんだ」
「待てとは言っておらぬ」
「ああ。言われてない」
短い返事だった。責めているのではないらしい。
「思い出したいか」
「知りたい。知らない道を、俺が歩いてきたんだからな。でも、今夜の飯が焦げるのも嫌だ」
フレイアは手元を見た。最後の一切れが黒くなっていた。
「……これは貴様の話が長いせいだ」
「俺のせいにすんな」
彼女は焦げた端を落とし、残りを食べた。
白い筋が、空の端を走った。
「あ」
エドガーが顔を上げる。もう消えていた。
「短いな」
「注文を聞く気がないのであろう」
「もう少し待ってくれてもいいのにな」
フレイアは暗くなった場所を見つめた。
「明日も、道を見せろ」
「俺が?」
「地図を読むのは貴様であろう」
「それなら、星より先に聞いてやるよ」
彼は毛布を引き寄せた。
翌日、東の道は古い石畳へ変わった。
橋の分岐には、兵士が言ったとおり崩れた欄干があった。二人は渡らず、浅い流れを越す別の道を使った。
畑が見え始めたのは昼過ぎだった。水路は土で埋まり、柵には新しい修理の跡がない。道端には、刃を外した農具が一本落ちていた。
「誰も住んでおらぬのか」
「まだ分からない。水を探しに出てるだけかもしれねえ」
エドガーは歩みを遅くした。
門には、メルスの名が残っていた。傍らに南の幹道を示す石標がある。目指す道は確かに続いていたが、その手前の町は静まり返っていた。
女神像の足元に、乾いた水盤があった。
馬車を門のそばに留めると、広場の陰で足音がした。
男が立っていた。痩せた身体に擦り切れた衣服。腰には剣がある。
エドガーは両手を見える位置へ置いた。
「南の道へ出たい。通れるか」
「通れる」
男の目が、馬車の水袋へ移った。
「……旅人か」
「ああ。水は要るか?」
男は頷くまでに間があった。差し出された器を両手で持ち、少しずつ飲んだ。
フレイアは、乾いた泉を見た。
「願いを叶える水は、ここにあったのか」
男が器を下ろした。
足元の小石を拾い、女神像へ投げる。頬へ当たり、乾いた音が返った。
「昔はな」
「噂だけではなかった?」
エドガーの問いに、男は水盤の縁を指した。何段もの黒い筋が残っている。
「水が減るたび、あそこへ印をつけた」
南へ抜ける道を、エドガーはもう一度尋ねた。男は神殿の裏ではなく、広場を回る道を指した。車輪の轍はそこへ続いている。夜のうちに急いで抜けるには、先の様子が分からなかった。
「話を聞いたら、明るいうちに出口まで確かめる」
エドガーが小声で言い、フレイアは頷いた。
二人は馬車の見える側で立ち止まった。男は反対側の縁へ腰を下ろした。
「最後に残った水の話をしようか」
空の器を返しながら、彼は泉の底を見た。
「飲んだ子供が、何を願ったのか」
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