第5話 泣くための心
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
エレイナの家の扉は、下半分だけ色が違っていた。
腐った板を別のものへ継ぎ替えたらしい。開くたびに床へ擦れ、その音を避けるように、少女は扉を少し持ち上げながら押した。
「すみません。奥が、少し狭くて」
フレイアは頭を低くして入った。
卓と椅子が二脚、小さな炉。その向こうへ、薄い布で仕切った寝台がある。豪奢な品は何もないが、食器は伏せて揃えられ、床の埃は隅へ掃き寄せてあった。
壁の割れ目には、布が詰められている。そこを抜けた風が、仕切りをわずかに動かしていた。
「リリア。ただいま」
エレイナが声をかけた。
返事はなかった。少女は眠っているのだろうと言い、卓へ薬包を置いた。
「朝、咳で起きていたから。今日は、少し長く寝かせてあげたいんです」
フレイアは空いていた椅子へ座った。エレイナが炉へ火を入れる間、寝台の脇に置かれた小さな杯が目に入った。縁が一か所欠け、その部分へ目印の糸が巻いてある。
少女の使う杯には、糸がない。飲む時に口を傷つけぬよう、妹のためにつけたのだろう。
「身体は、いつから悪い」
「小さい頃からです。よくなる日もあるんですけど、季節が変わると、また」
エレイナは湯を注いだ。乾いた葉を浮かべただけの茶で、香りは薄い。それでも、客へ出す方を何度も見て、欠けていない杯を選んでいた。
「両親は」
「いません。だから、私が」
少女はそれ以上の説明をせず、二つの杯を卓へ置いた。
フレイアは飲んだ。薄い葉の香りがした。杯を両手で包むエレイナへ、視線を向けた。
「妹にも、これを淹れるのか」
「飲める時は。熱いと咳が出るから、少し待ってから」
エレイナは自分の杯には口をつけなかった。薬を飲ませるため、湯の冷めるのを待っている。
その薬包へ向かう目だけは、感情を売買する者の説明をしていた時よりずっと分かりやすかった。
「その仕事を、妹にはさせぬつもりか」
「させません」
返事は早かった。
それからエレイナは、強すぎる言い方をしたと思ったのか、少し視線を伏せた。
「身体も弱いですし。私が引き取れば、あの子は、ほかのことを選べるかもしれないから」
「お前は、選ばなくてよいのか」
湯の表面が、静かに揺れた。
少女はそれを見て、少しだけ笑った。
「今は、これでいいんです」
エレイナは棚から薄い手帳を出した。
日付と金額が並び、ところどころへ短い文字が挟まっている。咳が少ない。粥を半分。起きて窓を見た。
彼女が一日をどう数えているか、その数行だけで分かった。
「いい日は、売れるものもできるので」
少女が言った。
フレイアは、意味を理解するまで少し時間がかかった。
妹の具合がよかった喜びを売り、その金で次の薬を買う。妹を案じる悲しみへ他人の悲しみを重ねながら、自分の幸福だけは、値がつくうちに手放す。
「それで、妹が笑ったことを覚えていられるのか」
「覚えていますよ」
エレイナは手帳を撫でた。
「ちゃんと、ここにも書いてあります」
フレイアは手帳を見た。記録をつける理由が、昨日までの自分とは違っていた。
扉が、激しく鳴った。
エレイナの指が手帳から離れる。外の声を聞いた時、その顔には、客へ笑いかける余裕がなくなっていた。
「返せよ。俺の、返せ」
路地の男だった。
少女が戸口へ向かいかけると、二度目の衝撃で木の掛け金が外れた。男が身体をねじ込み、彼女の腕を掴む。
「帰ってください。今は、何も」
「持ってるだろ! 前に持ってった、俺の悲しみだよ!」
エレイナは卓を背にして下がった。薬包が落ちそうになり、反射的にもう片方の手で押さえる。
男の腕が上がった。
フレイアが立つより先に、その腕を空中へ縫い留めた。男の身体が壁へ押しつけられ、椅子が一脚倒れた。
「離せ。邪魔するな」
男はまだ、何が起きたのか分かっていない。動く方の手で短剣を抜き、フレイアへ振った。
刃先が届く前に、指から力が抜ける。金属が床へ落ち、卓の脚のそばを滑った。
「ガイル。やめて」
エレイナが呼んだ。
男は少女の方へ首を向けようとし、できなかった。フレイアは男の視線を自分へ戻した。胸を圧迫する力を、ほんの少しだけ強める。
「さっき、生きているかと聞いていたな」
ガイルの息が浅くなった。
それまで何も留まらなかった目が、初めて彼女を捉えた。黄金の瞳から逃げようとして、首を動かせぬことに気づく。
「や、やめ」
「死ぬのは、嫌か」
男は答えようとした。だが、声より先に、喉の奥から湿った音が出た。
フレイアは、そこから強めなかった。
殺すには足りぬ力でも、男は殺されると理解した。脚が震え、唇が開き、助けを求める言葉がようやく形になる。
「嫌だ。死にたくない。頼む」
フレイアは力を解いた。
ガイルは床へ崩れ、空気を貪るように吸った。短剣を拾う余裕はなかった。這って戸口へ向かい、立ち上がろうとして膝をつき、それでも家から出ていった。
フレイアは戸口まで進み、二度と入るなと告げた。
その後ろで、エレイナが椅子を戻す音がした。
「ありがとうございました」
振り返ると、少女は卓の上を確かめていた。茶を拭き、薬包が濡れていないことを確かめ、湯の入った小さな杯を持つ。
怖くなかったのか、とフレイアは聞きかけた。
だが、エレイナはもう仕切りの布へ手をかけていた。
「リリア。薬、飲める?」
布の向こうの寝台に、小さな女の子がいた。
エレイナが枕へ手を入れ、上体を起こそうとする。いつもと同じ仕草だったのだろう。首を支え、口へ運ぶ杯の温度を、もう一度自分の指で確かめた。
だが、妹の頭は、彼女の腕へ預けられたまま動かなかった。
「……リリア?」
エレイナは杯を下ろした。
フレイアが近づき、子供の手へ触れる。指に温かさはなく、胸へ耳を寄せても、呼吸の音はしなかった。
ガイルはこの子へ触れていない。倒れた家具も、寝台には届かなかった。
病の中で眠った少女は、姉が薬を持って帰るのを待ちきれなかった。
「起きて。お客さんだよ」
エレイナは囁いた。
「魔族の人、来てくれたの。見たいって、言ってたでしょ」
フレイアは妹の手を布の中へ戻し、エレイナを見た。
何と言えばよいか分からなかった。だが、このまま声をかけさせ続けることもできなかった。
「もう、起きぬ」
少女は、彼女を見た。
すぐに否定するかと思った。怒るか、泣くか、今まで知らなかったものを向けられるかもしれないと思った。
エレイナは何も言わず、妹の胸へ耳を当てた。
長く、動かなかった。
やがて身体を起こすと、小さな杯を枕元へ置いた。欠けた縁が妹の口へ向かぬよう、糸の目印を外へ回す。その仕草だけが、さっきまでと同じだった。
「おかしいな」
エレイナは自分の頬へ触れた。
「分かるんです。死んじゃったんですよね。もう、話せないんですよね」
フレイアは頷いた。
少女の指が頬から胸へ下りる。そこを押さえ、目を閉じ、何かが起きるのを待つ。
「今日、知らない人のことで、あんなに泣いたのに」
声が小さくなった。
「私の妹なのに。世界で、一人だけなのに」
フレイアは、持っている力を一つずつ思い浮かべた。
扉は直せる。割れた杯も、切れた紐も、魔法を使えばどうにかなる。男を連れ戻して這いつくばらせることも、この街の誰より容易い。
だが、子供の止まった息を戻すことも、姉の中から失われたものを選んで取り出すことも、彼女の知る術にはなかった。
「レイさん」
エレイナが尋ねた。
教えてもらえば、また自分でできると信じているような、静かな声だった。
「私の悲しいって、どんな感じでしたっけ」
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