第4話 他人の涙で薬を買う少女
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
南東へ向かう通りは、途中から石の敷き方が変わった。
初めは継ぎ目が増え、次に欠けた石へ土が詰められ、橋を渡ると舗装そのものが途切れた。昨夜の雨が浅い水溜まりになり、家々の下へ濁った筋を引いている。
街を囲む壁は、こちら側にも同じ高さで立っていた。
だが、フレイアが昨日歩いた市場のように、道の真ん中で立ち止まる者はいない。通る者の足元を見て、先へ避け、客になりそうなら声をかける。人と人の距離が、また違っていた。
「姉さん。いい外套だ。少し軽くしてかないか」
板塀へ凭れた男が、感情導管を持ち上げた。
「一人旅は心細いだろ。怖いのも、腹立たしいのも、引き取るよ。今なら安くしとく」
「今、怖くはない」
「じゃあ、何か悔しかったことでも」
フレイアは昨夜の酒を思い出し、わずかに眉を寄せた。
男の目が、その小さな変化を拾う。
「あるじゃないか。その顔だ。楽になるぞ」
彼女は自分の表情へ値をつけられたことに気づいた。悪い気分を探し出すことも、ここでは商売の腕になるらしい。
「手放すつもりはない」
「そうかい。気が変わったら、また来な」
断ると、男はあっさり引いた。怒らせるより次の客を待つ方が、儲かるのだろう。
その先にも同じ器具を持つ者がいた。老人、片腕を吊った男、幼い子供を背負う女。誰も声を張り上げていない。静かな呼び込みが重なり、広い市場よりも近くから耳へ入ってきた。
泣く声を聞いたのは、曲がり角のそばだった。
小さな広場で、革靴の男が金を数えている。向かいの少女は俯き、両手を膝へ押しつけていた。肩が細かく震えている。
フレイアは足を止めた。門の前で見た、あの少女だった。
「もう、済んだだろう」
男が言った。
少女は頷こうとして、うまくできなかった。喉から嗚咽が洩れる。男は気まずそうに周囲を見て、彼女の手へ銅貨をもう一枚押しつけた。
「悪いね。いつもより、重かったんだ」
男が去ってからも、少女はしばらく動かなかった。涙が膝へ落ち、握りしめた銅貨が掌へ跡をつける。
フレイアは、男が踏み残した場所を避け、少女の前へ立った。
「昨日、門で会ったな」
少女が顔を上げた。見覚えを探す目が、フードの内側の角へ止まる。
「あ……お客様でしたか。ごめんなさい、今は少し」
「買いに来たのではない」
フレイアが告げると、少女は少し困った顔になった。客でなければ、何を求められているのか分からないらしい。
「その涙は、さっきの男のものか」
「はい。正確には、あの人が持っていた悲しみです」
「何があった」
「誰かを、亡くされたみたいで」
少女は胸へ手を当てた。息を整えながら、指を一度握り直す。
「はっきりした景色が見えるわけじゃないんです。ただ、大事な人がいなくなったんだなって、分かることがあります」
「お前が知っていた者ではないのだな」
「そうです。どんな人だったかも、名前も、分からない」
それなのに涙は止まらない。フレイアは膝の横へ落ちた雫を見た。他者の出来事を知らぬまま、身体の方がその喪失を受け取っている。
少女は立ち上がろうとして、少しよろけた。差し出した手首をフレイアが支える。軽かった。
「座っていろ」
「でも、道を空けないと」
「通れる」
フレイアは脇へ寄り、少女の座る場所を残した。通行人は二人を見たが、咎めなかった。
泣きやむまで待つと、少女は袖を探した。すでに濡れていたため、フレイアは鞄の小さな布を渡した。
「汚れます」
「拭くためにあるのであろう」
その返事に、少女は初めて少し笑った。
「ありがとうございます。私は、エレイナです」
「レイだ」
偽名を口にする時には、もう迷わなかった。
◆
エレイナは布を畳み、汚れた面を内側へ折り込んだ。
袖にも鞄にも、色の違う糸が通っていた。布を畳んだ指の爪に、細い糸くずが残った。
「いつから、これをしている」
「三年くらいです」
「最初から、耐えられたのか」
エレイナは首を振った。
「最初は、取り込む量が分からなくて。一日で動けなくなったこともあります。でも、今は分かります。ここまでにしようって」
彼女は掌の銅貨を数え始めた。一枚ずつ並べ、足りないところへ、男から追加された一枚を置く。
それで、今日の量は決まるらしかった。
「ほかの仕事は」
「洗濯も、片づけもしますよ。空いていれば。でも、こっちの方が、その場で貰えるので」
フレイアは周囲を見た。橋の向こうから、きれいな靴の人間が来る。こちらの人間が橋を渡る時は、買う物を決め、金を数えている。
往来は同じでも、運ぶものが違っていた。
「幸福も、売るのか」
エレイナは頷いた。
「高くなる時もあります。いいことがあった日に、少しだけ」
「その、いいことは」
「妹が起きて、食べられた時とか。……そういう、普通のことです」
言った後で、彼女は口を閉じた。フレイアが顔を上げると、エレイナは銅貨を鞄へしまい始める。
「薬を取りに行かなきゃ」
立ち上がった少女へ、フレイアもついていった。少女が振り返るより先に、薬を見たい、と言った。
小さな薬屋で、エレイナは銅貨を全部出した。店主が数え、一つの包みを渡す。少女は代金を二度確かめてから、包みを鞄ではなく服の内側へ入れた。
店を出た時の足は、さっきより速かった。
「妹が飲めば、治るのか」
「楽には、なるんです。咳が減って、眠れるから」
治るとは言わなかった。
フレイアは、薬屋へ戻ることも考えた。もっと高いものなら効くか、ほかの町に治す者がいるか。だが、まだ妹の姿も見ていない。
自分の知っている言葉を先に渡してしまえば、少女が期待するかもしれない。その期待へ何を返せるか、分からなかった。
「あの、よかったら、お茶でも飲んでいきませんか」
エレイナが振り返った。
「お世話になったので。ちゃんとしたものは、出せませんけど」
「世話か」
「布も、まだお返しできていませんし」
客でもない自分と話しただけで、少女は何かを返そうとしている。
フレイアは頷いた。
「では、妹の様子も見せよ」
エレイナの顔が明るくなった。魔族へ会ったと話せば驚くかもしれない。角へ触れても怒らないか。少女がそんなことを言い始めた、その時だった。
「おい。まだあるんだろ」
路地の影で、男が手を伸ばしていた。
服の布地はもともと上等だったらしい。だが襟は垢で固まり、足元には片方の靴しかない。こちらを見る目は定まらず、少女の胸元と手元を行き来した。
「今日、持ってるんだろ。俺にも、少し」
エレイナの肩が硬くなる。
男が一歩出ると、フレイアは少女との間へ身体を入れた。男の視線が初めて彼女へ合い、すぐにまた外れた。
「誰だ」
「……前に、引き取ったことがある人です」
エレイナは答え、フレイアの袖を引いた。
「行きましょう。話しても、同じだから」
男は追ってこなかった。ただ、壁から離れた手が、何かを掴もうとして空を切った。
「なあ、どっちでもいいんだよ。楽しいのでも、痛いのでも」
声が、二人の背を追った。
エレイナは歩みを緩めず、服の上から薬包を押さえた。フレイアは後ろを一度だけ見た。
男が自分の胸へ掌を当てていた。そこに何か残っていないか、触って確かめるような手だった。
「俺、まだ生きてるか……?」
誰へ向けた問いか、分からなかった。
フレイアは答えを持たぬまま、少女の歩く速さへ足を合わせた。
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