第3話 分けたはずの悲しみ
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
酒場の扉を開く前から、中の声は聞こえていた。
笑い声の下に別の笑い声が重なり、誰かの歌が途中で咳へ変わる。窓に近づけば、焼いた肉と酒の匂いが混ざって鼻を刺した。宿で聞いた食事の時刻までは、まだ少しある。
南東への道を聞こうと扉へ手をかけた時、背後から名前を呼ばれた。
「フレイ――」
「呼ぶな」
振り向いた彼女の声に、エドガーは口を閉じた。手には酒瓶、肩には薄くなった商談用の鞄。二頭の馬はいない。
「何と呼べばいいんだよ。ずっと魔王様じゃ、余計に目立つぞ」
偽名を決めておくべきだった。フレイアは少し考えた。
「……レイでよい」
「分かった。レイ、これから晩飯か」
「門にいた少女を探しておる。引き取り人は、南東にいるそうだ」
「なら、親父が詳しい。俺も商談の続きでな」
エドガーが先に扉を押した。向けられた人々の目が角へ止まり、すぐに自分の杯へ戻っていく。
カウンターの店主は、白髪混じりの頭を上げた。
「二人かい」
「俺はいつもの。こっちは――」
「同じものでよい」
知らぬものは試すと決めていた。エドガーは何か言いたそうだったが、彼女の前にも木の杯が置かれた。
薄い泡の下で、濁った金色が揺れる。結晶の幸福とは、あまり似ていなかった。
奥の席で、女が咳き込んだ。
俯いた肩を仲介人らしい男が支え、卓へ金色の結晶を置く。女の目は赤く、指の間で揉まれた布が小さく固まっていた。
「彼女は、病か」
フレイアが尋ねると、店主は杯を拭く手を少しだけ緩めた。
「母親を亡くしたんだと。ここ数日、ほとんど眠れないらしい」
女は結晶へ手を伸ばし、一度引いた。それから、落とさぬよう両手で握り、胸へ押し当てる。
光が指の隙間から洩れた。
肩が一度、大きく跳ねた。女は目を閉じ、布を握りしめる。やがて吐く息が長くなり、唇の端が少し上がった。
「……温かい」
女が言った。
「ずっと、身体が冷たかったの。布団へ入っても、どうにもならなくて」
男は彼女の前へ水を置いた。女は礼を言い、震えずに杯を持ち上げた。
さっきまで俯いていた顔が上がり、店主へ温かい食事を頼む。笑顔は腫れた目元と釣り合わなかった。だが、運ばれた皿へ向ける視線には、さっきまでなかった力がある。
「偽物であろう。喜ぶべき理由ができたわけではない」
フレイアが小さく言うと、店主は女を見たまま答えた。
「飯が食えるようにはなった」
フレイアは口を閉じた。女が匙を持ち上げると、焼いた肉が一切れ、皿から減った。
「では、皆が好きな感情だけを入れればよいのか」
「そうもいかねえよ」
エドガーが答えた。明るさを削いだ、低い声だった。
「怖いと思えなくなったやつは、危ない場所へ平気で踏み込む。勇気がついたのと、壊れたのとを、自分では区別できないこともある」
彼の指は杯ではなく、腰の外套へ触れていた。その下にあるものを、フレイアはまだ詳しく知らない。
「知っている者が、いるのか」
「見たことはある」
商人は指を離し、酒を飲んだ。それ以上は語らなかった。フレイアも、続けては聞かなかった。
奥の女は食事を半分ほど残し、包んで持ち帰れるかと店主へ尋ねていた。明日の朝も食べたいという。店主は頷き、空いた皿を取りに行った。
◆
「最初から、こんな商売だったのか」
店主が戻ると、フレイアは尋ねた。
「王様が考えたそうだよ。一人で抱えきれねえなら、皆で少しずつ分ければいいってな」
「幸福もか」
「ああ。喜びも分ければ、独り占めにならない。悲しみだって、十分の一なら耐えられるかもしれねえ」
門前の少女は、一つ隠したばかりなのに、もう次の客へ声をかけていた。あの頬が乾く暇はあったのだろうか。
「分ける人数は、誰が決める」
「請ける側だな。どれだけ引き受けるかも、自分で選ぶ」
「請けねば食えぬ者も、同じように選べるのか」
店主は布巾を置いた。
「……選べるものが少ないのは、確かだろうよ」
店の隅に、小さな肖像画が飾られていた。
若い男が笑っている。額縁の片側へ黒い布が結ばれていたが、絵そのものは、何度も磨かれたようにきれいだった。
店主の目が、ふとそこへ動いた。
フレイアは何の絵かと聞きかけた。だが男はすぐに仕事へ戻り、別の客の注文へ応じた。立ち去った女の皿を片づけ、残った食事を丁寧に包んでいる。
「南東へは、どこを通る」
注文を聞き終えた店主が、古い注文票を裏返した。広い通りを一つ、橋を一つ、その後の細い道をいくつか描いてくれる。
「朝なら仕事を探して出てる。奥へ行くと、ちゃんとした宿も少ない。道を間違えるなよ」
「我の身を案じておるのか」
「客が戻ってこなけりゃ、次の酒が売れんからな」
エドガーが、どこかで聞いた理屈だなと笑った。
フレイアは地図を受け取り、杯を持ち上げた。一口飲むと、舌の上へ苦味が広がった。
「……これは、何のための味だ」
思わず尋ねた。
エドガーが噴き出し、店主が水を出す。だがフレイアは杯を置かなかった。自分だけが分からぬ味を、二人が平気で飲んでいることが気に入らない。
「貴様は、これが美味いのか」
「俺にはな。無理して飲むもんじゃない」
「無理はしておらぬ」
もう一口飲むうち、頬が温かくなった。暖炉の火は、先ほどと変わっていない。
地図へ注釈をつけようとしたペンが、紙の端から外れた。
「……机が動く」
「動いてねえよ」
「酒へ何を入れた」
「麦だ。あと、そうだな、たぶんお前が苦手なもの」
立ち上がった瞬間、エドガーの手が肘を支えた。
反射的に払いかけ、止まる。足元の床が、自分の思う場所にない。彼女は男の袖を握り直した。
「食事も酒も不要だと言ったのに、ずいぶん効くな」
「毒とは、違うのか」
「似たようなものかもしれんが、強い弱いは別だ。ほら、水」
差し出された杯を両手で持ち、水を飲んだ。少し目を閉じると、笑い声が遠くなった。
最後に聞こえたのは、エドガーが店主へ、宿を知っているかと尋ねる声だった。
翌朝、フレイアは借りた部屋で目を覚ました。
枕元には水の入った杯と、折り畳んだ地図がある。自分で歩いて帰ったのか、運ばれたのか。今は確かめずにおくことにした。
地図の端に、自分の字で一行だけ書かれていた。
『さけには、かたぬ』
フレイアは頁を伏せた。その下へ、店主が書き足した細い文字が現れる。
『南東の橋は、朝六つの鐘で開く。引き取りの仕事は、それより早く始まる』
窓の外には、夜明け前の薄青い街があった。
幸福の露店はまだ閉じている。だが、橋へ向かう細い人影は、もう何人も歩いていた。
フレイアは地図を畳み、外套を取った。門では聞けなかった答えを、今度は本人から聞く。
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