第47話 届かなかった手紙
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
厩舎は、門の内側にあった。
屋根の半分が落ち、壁を蔦が覆っている。箱庭で見た建物と同じ位置に、馬車の轅が覗いていた。
フレイアが瓦礫を一つずつ退ける間、エドガーは二頭の名を呼んだ。
「シリウス。ベガ」
黒い耳が動いた。
地面に残る円が、ゆっくりと光を失う。シリウスが首を持ち上げ、少し遅れてベガが鼻を鳴らした。
眠っていた二頭を、エドガーはすぐには立たせなかった。少しずつ水を与え、脚を撫で、身体が冷えすぎていないか確かめる。
その手順を、フレイアは邪魔せずに見ていた。
思い出してほしいこととは違う。それでも、残っているものがあった。
馬車の軸は折れていなかった。
積み荷にも、端を削った支えにも、見覚えがある。宿の前でつけた車輪の印まで残っていた。
街で生まれた物は消えたが、外から持ち込んだ物は、こちらの形へ戻っていた。
フレイアは二頭を風の弱い所へ移した。飼葉を置き、荷台から毛布を出す。歩かせるのは、もう少し休ませてからにした。
時計塔へは、揃って戻った。
入口に、階段から落ちた石が積もっている。フレイアは崩れた箇所を確かめ、通れる分だけ退けた。
「俺は下で待つか」
「その方がよい」
エドガーは頷いた。
彼女は一人で上がった。足場のない所は、壁へ荷重を掛けずに越える。箱庭で聞こえていた町の声は、もうどこからもしなかった。
最上階の床に、黒い布が残っていた。
膝を抱えるような形の骨と、その横に一本の杖。
壁には、崩れた術式の線がある。床から伸びる何本もの線が、その身体の位置へ集まっていた。
オディリアは、ここを離れられなかったのだろう。
フレイアは、少し離れて膝をついた。
百年間座っていたのではない。身体が動けた時間は、もっと短かったはずだ。その後に残った者が、ずっと待っていた。
手を伸ばしかけ、止める。
名を確かめられる物がないか、先に周りを見た。
杖の柄に、細い文字があった。
オディリア。
擦れた綴りの下に、贈り主らしい別の名がある。アテナ、と読めた。
柄を持ち上げると、先端の魔石が弱く光った。身体の代わりに、長く術へ繋がれていた道具だった。
そのすぐ脇に、小さな箱が置かれていた。
周囲は埃に覆われているのに、蓋だけが薄い膜を被ったように滑らかだった。
保存の術が、まだ僅かに残っている。
蓋に、彼女の名があった。
フレイアへ。
読んでから、もう一度見た。
この街へ来る前に、彼女を知っていた者。
ここへ残す理由のあった者。
留め具を外す指が、いつもよりゆっくり動いた。
中には、一通の手紙があった。
『フレイアへ。
君がこれを読むかどうか、僕には分からない。
それでも、ここを通ることがあればと思って残す。
僕はヘクセライへ戻った。
遅かった。街には、生きている人を見つけられなかった。
オディリアも、この塔にいた。名前を呼んだが、身体はもう動かなかった。
塔の術を調べて、別の場所へ繋がっていることだけは分かった。そこには大勢の反応がある。彼女も、そちらにいるのかもしれない。
中へ声を送ろうとした。入る道も探した。でも、届かなかった。
外から壊すことはできたと思う。
その先にいる者まで失わせずに壊す方法を、僕は見つけられなかった。
何もしなかったことに、理由をつけているだけなのかもしれない。君へ頼むのも、同じことかもしれない。
それでも、もし言葉が届く場所へ入れたなら、オディリアと話してほしい。
助けてやってほしい。
僕は、祭りへ来る約束を忘れていなかった。
来るのが遅くなった。ごめん。
彼女が作る光を、見たかった。
ここは、最果ての国ではない。
最果ての国は、僕の故郷だ。君には、そこへ来てほしい。
レイドス』
最後の名まで読んで、フレイアは手を下ろした。
手紙を残した時には、外と内を隔てる仕切りは、まだ破れていなかったのだろう。百年を待ち、傷み、他人を取り込むほど乱れた後で、彼女たちは入れた。
その時間を、オディリアへ返すことはできなかった。
「フレイア。無事か」
階下から声がした。
「ああ」
「何かあったのか?」
「手紙があった」
彼女は箱へ戻さず、もう一度、最後の数行を読んだ。
百年後に最果ての国へ来いと言った男は、自分の故郷へ呼んでいた。
何を見せるつもりだったのかは、書かれていない。
この手紙まで、答えより先に行き先を渡してくる。
フレイアは骨を乱さないよう、黒い布の残る場所へ杖を一度置いた。
「レイドスは来たぞ」
声にした。
聞く者がいるとは思わなかった。
「貴様へ伝えるには、遅すぎた」
それ以上のことは言えなかった。
骨は動かさず、杖を取り直した。箱と手紙を持って塔を下り、エドガーへ手紙を見せた。
彼は最後まで黙って読み、折り目に沿って返した。
エドガーは何か言いかけ、口を閉じた。
そのことが、今はありがたかった。
広場の土に、小さな花が咲いていた。
箱庭の花壇とは違い、色も高さも揃っていない。踏まれた茎が曲がり、花弁の一つは虫に食われていた。
フレイアは、塔の見える場所へ杖を立てた。
遺骨を移した墓ではない。ここにいた者の名を示すための印だった。
箱の中へ手紙を戻し、根元の平たい石に置いた。保存の膜が切れていないことを確かめ、風で動かぬよう小石を添える。
「持っていかないのか」
「あの者に届かなかった言葉だ」
「行き先の所は、写しておこう」
エドガーは自分の帳面を開いた。
知らない日の文字がある頁を越え、空いた所へ最後の一行を書き写す。フレイアも、その横から綴りを確かめた。
覚えていれば十分だと、今日は言わなかった。
エドガーが、鞄から鳥を出した。
「これ、置いてもいいか」
「貴様の物だ」
「俺が彫ったって、あんたは言うけどな」
彼は片翼を見た。
「ここで何かしてたのが、全部嘘だったとは思いたくねえんだ。覚えてないけど」
箱の蓋へ鳥を載せた。
粗い木肌が、夕日を吸って赤くなる。
フレイアは直さなかった。
馬たちが動けるようになってから、二人は門を出た。
すぐ遠くへ進まず、街の見える草地で休んだ。二頭へ水を替え、残っていた食料を分ける。
空腹を訴えるエドガーを見て、フレイアは乾パンを一つ多く渡した。
「あんたは食わないのか」
「今は、要らぬ」
彼は問い直さずに受け取った。
暗くなる前、フレイアは街を振り返った。
どこかで、明日の祭りへ誘われた気がした。
だが、風が草を渡る音だけだった。
「エドガー」
「何だ」
「おにぎりという物を知っておるか」
彼が目を丸くした。
「急に食い物の話かよ」
「米を固め、魚を中へ入れ、黒い海藻を巻くそうだ」
「知ってる。食ったことはねえけど、東で売ってるって聞いた」
彼女は、火のそばで二つの包みを開いた話を思い返した。
「食べてみたい」
「材料があれば、作ってみるか」
エドガーは言ってから、苦笑した。
「変な話だな。会ったばかりの魔王に、飯の約束してる」
エドガーは荷袋へ残りの乾パンをしまった。
フレイアは、もう一度だけ街を振り返った。
暮れ残る空に、時計塔の欠けた屋根が見えた。風が止んでも、彼女はしばらくそちらを向いていた。
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