第46話 もう一度、隣を歩く
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
最初に戻ったのは、寒さだった。
石の冷たさが背中から伝わり、フレイアは目を開けた。
頭上に、欠けた城門があった。青い空を横切る梁は半分しか残っていない。さっきまで見えていた高い屋根も、花を飾る窓もなかった。
石畳に刻まれた円の中で、彼女は横たわっていた。
門を通った時に踏んだ、あの円だった。
起き上がろうとすると、左手が引かれた。
エドガーの手を握っているつもりだった。だが指に触れたのは、彼の外套の端だった。
少し離れた円に、彼は身体を丸めている。
「エドガー」
肩へ触れると、低い呻きが返った。
胸が上下している。それを見てから、フレイアはようやく息を吐いた。
彼が目を開ける。
「……水」
腰の水袋は残っていた。蓋を開けて渡すと、彼は少しずつ飲んだ。
その動作を、フレイアは黙って見ていた。
飲み込んだ喉が、きちんと動く。
「我の名は」
エドガーは水袋を下ろした。
「助けてもらったのか?」
「我の名を、言ってみろ」
彼はしばらく考えた。
気遣うような、困った笑みが浮かぶ。
「悪い。知らねえ」
フレイアは手を引いた。
もう少し待てば思い出すのかと、一瞬だけ考えた。
その一瞬を、彼女は自分で断った。
「フレイアだ」
「俺は、エドガー。……知ってるみたいだな」
「共に旅をしておった」
「あんたと?」
彼の視線が、角へ移る。驚きはしたが、銃を抜きはしなかった。
腰を確かめ、二挺ともあると分かると、少し落ち着いたようだった。
何を覚えているか、順に聞いた。
商売をしていたこと。馬車を持っていること。シリウスとベガという二頭がいること。
故郷を聞こうとすると、彼は顔をしかめた。
「そこは、後にしてくれ。痛えんだ」
フレイアは頷いた。
取り戻せたものと、まだ確かめられないものがある。全部が消えたとも、旅だけが消えたとも、ここでは決められなかった。
ただ、彼女の顔を見ても、何も戻ってこないことだけは分かった。
彼の右手には、小さな鳥があった。
片翼が落ち込み、嘴が太い。腹の端に釘穴が開いている。
「何で、これを持ってんだ?」
「貴様が彫った」
「俺、彫刻の商売もしてたか?」
「しておらぬ。馬車の端材だ」
エドガーは、木の表面を撫でた。
フレイアは塔の術式を思い返す。持ち込んだ荷には、街の物と違って外へ続く線があった。あの場所で削った傷が、こちらの木にも残っている。
霧が、城壁の向こうへ薄く流れていった。
草だけに見えた丘陵の下から、崩れた石の街が現れている。外からは、この姿も見えなくされていたのだろう。
通りには、骨があった。
石畳の隙間から伸びた草が、その一部を覆っていた。どれが誰だったか、フレイアには分からない。少女が転んでいた辺りにも、小さな骨がある。リナだと呼びかけることはしなかった。
エドガーは立ち上がりかけ、その景色を見て動きを止めた。
「……何があった」
「百年前、ここで戦があった」
「それで、俺は何でここに」
「長くなる。歩けるか」
「少しなら」
フレイアは彼の腕を取ろうとして、止まった。
「手を貸すか」
「頼む」
それから、支えた。
エドガーは足の感触を確かめ、一歩ずつ石畳へ降りた。眠ったままだった身体は強張っているらしく、途中で何度も止まった。
彼女はその速さに合わせた。
日が傾いていた。
どれほど外の時間が過ぎたのか、二人の持ち物だけでは確かめきれなかった。
フレイアは広場までの間に、分かっていることを話した。霧。繰り返す朝。祭具の店。彼の記憶が変えられたこと。そして、箱庭を終わらせたこと。
オディリアの名を言うと、エドガーは繰り返した。
「その人を、あんたが」
「殺した」
彼は黙った。
時計塔の下で、エドガーは腰を下ろした。
「あんた、何者なんだ」
「ハイデルの娘だ。今は、魔族の王を務めている」
「……魔王?」
声がひっくり返った。
「そんな相手と、俺が旅をしてたのか」
「前も似たように驚いた」
「だろうな。驚くなって方が無茶だ」
彼は木彫りの鳥を鞄へしまった。
「何で、一緒にいた?」
「貴様が声をかけた。荷台へ乗せ、食い物を寄越し、無駄な話をした」
「商売にならねえ客だな」
「その点は、たびたび文句を言われた」
エドガーの口元が少し上がった。
聞き慣れた笑い方だった。
「この先、どうする」
「旅を続ける」
「俺は?」
「貴様が決めることだ」
言うと、胸の奥が重くなった。
彼はこの場で別れるかもしれない。命を助けたのだからと、同行を求めることもできた。昔の約束を勝手に作ることも、今の彼には見抜けないだろう。
フレイアは、そのどちらも言わなかった。
「来るならば、我は拒まぬ」
「随分、偉そうな誘い方だな」
「王だからな」
「便利な身分だ」
エドガーは塔を見上げた。
歯車が、低く鳴る。
残った魔力が抜けたのか、重りが動いたのか、フレイアには見えなかった。止まっていた針がわずかに傾き、鐘が一度だけ響いた。
長い余韻が、崩れた屋根の間へ消える。
誰も、明日だとは言わなかった。
「まず、馬を探したい」
エドガーが言った。
「それから、次の町まで一緒に行く。話を聞くなら、道中でもできるだろ」
「そうか」
「先のことは、その後だ」
「分かった」
彼は立ち上がった。
足はまだ危なっかしかったが、今度は先に手を出してきた。
フレイアが支えると、彼は塔の扉を振り返る。
「あの人の身体は、この上にあるんだよな」
「おそらく」
「馬を見つけたら、戻るか」
フレイアは、暗い入口を見た。
箱庭で見た少女を、現実の身体で確かめてはいない。
「ああ。置いたままにはせぬ」
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