第44話 我の、旅の相棒だ
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
話を聞き終えても、小さな手が目に浮かんだ。
オディリアの指を握り、離れまいとした手。
先ほど見せられた紫色の霧と、今語られた少女の声が、フレイアの中で重なっていた。
「身体を治す術ではなかった」
オディリアが言った。
「分かっていたわ。でも、他には何もなかったの」
窓の下では、人々が祭りの支度をしている。
助けてと声を上げた少女も、そこにいた。花を飾り、一つ落とし、拾ってまた飾る。
あの時、手を伸ばしたことまで間違いだったのか。
フレイアには、その答えは出せなかった。
ただ、少女はもう、助けてと言っていない。助かったのだと信じさせられたまま、明日を待っている。
「全員の記憶を、貴様が消しているのか」
「初めは、痛みを思い出さないようにしただけだった」
オディリアは、壁の線へ手を沿わせた。
「同じ場面を長く保つほど、違う記憶がぶつかる。戦争のこと。ここへ来る前のこと。思い出した人が苦しむたびに、外して……今は、術が勝手に揃えてしまう」
「止めろ」
「止め方が分かるなら、止めているわ」
「ならば、触るな。読ませろ」
フレイアは袖をまくった。
結び目の一つに細い魔力を入れ、どこへ繋がるか探る。門の輪、宿、厩舎。見覚えのある場所を辿るうちに、二つの反応が分かった。
一つは深い眠りに近い。もう一つは、絶えず細かな形を変えている。
外にある身体と、こちらで動いている意識だ。
その間を引き離すと、意識の方が欠け始めた。
フレイアはすぐに力を戻した。
水晶の中で、エドガーが額へ手を当てていた。
「今のは、お前ね」
オディリアが言った。
「失敗を待っていたのか」
「ワタシにも、同じことが起きた」
静かな声だった。
フレイアはもう一度、線を見た。壊す力なら足りる。だがそこへ繋がった者を残して壊す知識は、持っていない。
「次の朝になれば、彼もこちらへ定着する」
「その時、外の身体はどうなる」
「呼び戻す先ではなくなる。死ぬまで眠り続けるのか、それより前に繋がりが切れるのか……ワタシには確かめられない」
フレイアは指を引いた。
もう何度も試す時間があるわけではなかった。
「百年、そうして待っていたのだな」
「ええ」
「毎日、今日はまだ終わらせぬと決めて」
「決めたつもりなんてなかった。明日なら助けが来るかもしれない。それだけよ」
オディリアは、閉じた掌を見た。
「レイドスが死んでいたら、もう誰も来ない。そう思ったら、数えることさえ怖くなった」
「普通の人間なら、百年は長い」
「分かっているわ」
答えは早かった。
階下から、エドガーの声がした。
「この翼、どうも上手くいかねえな」
フレイアは水晶へ近づいた。
彼が持っている鳥の腹には、小さな釘穴がある。
持ち込んだ木片は変わらず、削った男だけが、誰だったのか分からなくなっている。
「あの男を、ここへ」
フレイアが言うと、オディリアは目を上げた。
「呼べるのか」
「街の中なら。もう、繋がっているから」
「呼べ。本人に聞く」
オディリアが杖を持ち上げた。
円形の床の端に、人影が現れる。椅子がなくなったことに驚き、エドガーは尻餅をついた。
「おい! 刃物持ってんだぞ、危ねえな!」
手には木彫りの鳥と、小さな彫刻刀があった。
それを置く場所を探す仕草まで、フレイアはよく知っていた。
「我の名は」
彼は顔を上げる。
「……昼間の客か?」
「我と旅をしておった。覚えていないか」
「旅?」
彼は首を振った。
「俺は祭具を売ってる。店を空けられねえんだ。戻してくれよ」
オディリアの杖から、光の線が伸びた。
エドガーの足首へ絡み、立ち上がろうとした身体を床へ留める。
「何だよ、今度は!」
「待って。少しだけ」
オディリアは彼を見ず、フレイアへ尋ねた。
「ここに残りたいと言っているわ。あなたが連れていた男を、もう覚えていない」
「そうさせたのは、この術だ」
「それでも連れ出すの? 自分の知っている彼を取り戻すために?」
フレイアは答えなかった。
オディリアの問いは、彼女自身へも向いているようだった。
変わってほしくない。失いたくない。それを願って、この街を作った者の問いだった。
「なら、試してみる?」
光の線が、エドガーの胸へ伸びた。
「核へ繋げば、もう苦しんで迷わなくて済む。外の記憶を戻そうとしても、傷つくだけよ」
「触れるな」
「忘れた人間一人に、執着するの」
「我が、人間一人ごときに――」
口にした言葉が、喉で止まった。
エドガーが、目の前にいた。
言い終えるのを待つ目ではない。自分をどうするか、勝手に話し合う二人を睨んでいた。
「俺にも話せよ」
低い声だった。
「俺のことだろ」
フレイアは、膝をついた。
彼の目と同じ高さになる。
「貴様は、商人だ。馬車に二頭を繋ぎ、諸国を巡っていた。我はその荷台に乗っておった」
「覚えてねえ」
「知っておる」
「だったら、言われても困る」
「それでも、今の貴様へ話している」
エドガーは口を閉じた。
フレイアは、胸に伸びる線へ手を近づけた。切るためではなく、その先へ進ませないために。
「この街は、同じ日を繰り返す。貴様の記憶を、ここで暮らした記憶へ変えている。明日になれば、戻れぬかもしれん」
「明日は祭りだ」
「来ぬ。貴様は何度も、明日と言っている」
エドガーは、困ったように笑った。
「じゃあ、俺は何を待ってたんだよ」
答えられなかった。
彼が手の中の鳥を見る。欠けた翼を指で撫でる。
「あんたの話が本当か、分からねえ。でも、この紐は嫌だ。俺の知らねえ所へ、勝手に繋ぐな」
フレイアは顔を上げた。
「聞いたな」
オディリアの杖が揺れる。
「あなたにとって、彼は何?」
「先に離せ」
「取り戻したい物なの。それとも――」
「物ではない」
声が、思ったより大きく出た。
魔力が足元へ広がった。
窓も、歯車も、エドガーを繋ぐ線も、わずかに震える。フレイアは息を吐き、その揺れを抑えた。
ここで怒りに任せれば、彼まで壊しかねない。
エドガーが警戒したまま尋ねる。
「あんたは、俺の何なんだ」
商人。道案内。勝手についてきた者。
どれを言っても、彼を置いていけない理由にはならなかった。
フレイアは懐の冊子を開かなかった。
「我の、旅の相棒だ」
エドガーは瞬きをした。
何かを思い出した顔ではなかった。
それでも彼女は、言い直さなかった。
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