第43話 明日に置いていかれた街
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
紫の煙は、火より低く広がった。
オディリアが張った壁の下を抜け、石の継ぎ目へ沁みていく。兵士が扉を閉めた建物にも、細い筋となって入った。
「口を覆って、風上へ!」
自分も袖を当てたが、舌に苦みが残った。
城壁から下りる途中で、兵士が倒れた。肩の傷へ治癒の光を当てると、傷口の紫が広がった。
オディリアはすぐ手を離した。
魔力へ、寄ってくる。
「治癒を止めて! 毒が術へ反応しています!」
隣の術師が青ざめて杖を引いた。その足元で、男が身体を丸めていた。痛みを和らげようとした光が、かえって苦しめた。
薬箱は空ではなかった。だが用意された解毒薬を飲んだ兵士の呼吸は戻らず、次の薬を試す時間も残されていなかった。
通信石を握る。
返事がない。中央防壁の向こうは煙に隠れ、師のいる場所も見えなかった。
広場へ出ると、小さな手が外套を掴んだ。
少女だった。どこかで見た顔だ。研究室へパンを届けに来る老人のそばで、よく走っていた。
「勇者様、来る?」
問いの途中に咳が混じった。
オディリアは膝をついた。少女の唇は紫に変わりつつあった。
「来る。だから――」
だから何をすればいい。
励ます言葉より先に、掌へ伝わる力が弱くなった。
あの村の警備兵が重なった。薬が来るまでの時間がなかった。今回は薬を選ぶ相手すら決められない。街のあちこちから、同じ咳が聞こえる。
オディリアは荷を開いた。
折りたたんだ退避術の紙。移す先はできている。精神を繋ぎ止める輪も。だが身体を守る術にはなっていないし、戻す道の安定も試せていない。
今日まで、使わなかった理由が全部そこにあった。
少女の手が、もう一度袖を引いた。
「死ぬの?」
オディリアは紙を握った。
「少し、眠っていて」
広場の座標陣は、転移で外周を焼き切っていた。
彼女はその外側へ新しい線を引いた。城の守りに使った銀線を退避陣へ繋ぎ、中央の時計塔を固定点にする。個人の杖だけでは、街全体を支えられない。
そばの術師が図を見て息を呑んだ。
「精神を分けるのですか」
「ここにいる、生きている者だけでも」
「身体は残ります。毒も残ります」
「分かっています」
「戻れなければ」
オディリアの手が止まった。
戻れる、と言えば嘘になる。
「外で毒を取り除ける人が来るまで、精神を守る。ほかの方法を、今、ワタシは持っていません」
術師は彼女を見ていた。やがて、自分の杖を銀線へ当てた。
納得したのか、立っているのが限界だったのかは分からなかった。
広場から、もう一度咳が聞こえた。オディリアは術師へ頷き、線を閉じた。
時計塔へ向かう経路が灯った。
中枢には術者の身体と、精神の繋ぎ目を固定する必要があった。最後に残った転送線を、自分のために使う。
光が足元を包んだ。少女へ手を伸ばしかけたまま、広場が遠ざかる。
次に背へ触れたのは、塔の最上階の壁だった。
ここからなら防壁の線がすべて見える。息をするたび、胸の奥に毒が引っかかった。
もう一度、魔力を引き出す。
外側を閉じれば、中へ毒は入らない。その代わり、声も、外を見る目も失う。救助を待つ場所として、それがどれほど不都合かを計算する余力はなかった。
白い光が通りを走った。
倒れた人々の上に、薄い輪郭が浮かぶ。まだ繋がっている者を、切れないうちに引き寄せる。すでに途切れたものには届かない。
途切れた輪のそばを、新しい光が通り過ぎた。オディリアは次の輪へ手を伸ばした。
向こう側には、何もなかった。
暗いだけの空間へ人を置けば、目覚めた者は自分の身体さえ見つけられない。オディリアは、街を思い描いた。
焼ける前の石畳。パン屋。井戸。研究塔の窓。
それだけでは、彼らは襲撃を思い出す。毒に苦しんだ最後の記憶を抱え、逃げ場のない街で怯え続ける。
帳面に描いた小さな光の陣が、脳裏へ浮かんだ。
祭りを開くと、約束した。
だから、戻ってきた彼を迎える支度をする。柱を立て、料理を用意して、空へ上げる灯りを並べる。
まだ祭りにはしない。彼がいない。
明日なら、来るかもしれない。
白い街へ花を置いた。壊れた扉を戻し、血を洗い、少女の膝から傷を消した。
「明日は、お祭りです」
口にすると、誰かが頷いた。
少女が老人の手を引いた。老人は首を傾げた後、笑った。どうして逃げていたのか、少女はもう尋ねなかった。
オディリアは、その笑顔へすがった。
最初の夜が来た。
外を見ようとしたが、何も返らなかった。絶対遮断の輪は設計どおりに閉じている。通信石へ手を伸ばしても、ここにあるのは姿を似せたものだけだ。
身体へ戻れば分かる。だが皆を一緒に戻す道しか、いまは開けない。戻った先に毒があれば、今度こそ失う。
彼女は朝の状態を、もう一度呼び戻した。
少女は同じ石畳へつまずいた。老人が抱き起こす。今度も怪我はない。
それでよいと思おうとした。
十度、百度。
オディリアだけが、繰り返した日を覚えていた。
目印を壁へ書いても、街と一緒に消える。だから塔の中枢へ刻んだ。やがて、その数も見なくなった。
時計を進めれば、祭りの日になる。けれどレイドスがいない。明日だと伝えた約束を破ることになる。
最初は、救援のために待った。
そのうち、待った日々を無駄にしないために待った。
住民に襲撃の話をしようとした夜もある。老人は困った顔をし、少女は泣いた。朝へ戻すと、どちらも忘れた。
その静けさに、彼女は安堵してしまった。
「肉体がどうなったかは、見ていない」
オディリアの声で、時計塔の広間が戻った。
フレイアは何も言わなかった。
「精神を分けたって、毒は消えない。助ける人が来なければ、身体は死ぬ。そんなこと、最初から知っていたのよ」
言葉を切り、透ける手を握った。
百年という長さを、初めて外から告げられた。それでも否定したかったのだと、今は言えた。
外で誰がいつ死んだのかは、彼女には分からない。だが、帰る身体がまだあると信じる根拠もなかった。
「霧は、いつから漏れた」
「分からない。閉じたものが壊れていると、あなたたちが来るまで知らなかった」
外から入り込んだ生きた身体を受け止める線が、門へ増えていた。かつて死にかけた市民の身体を戻せなかった術が、いまは旅人を眠らせ、内側へ取り込んでいる。
窓の下から売り声がした。
エドガーが、明日の祭りへ客を誘っている。
オディリアは中枢へ手を当てた。新しく加わった線が、古いものに絡みついていた。
「ここから先は、ほどけない」
オディリアが杖で示した場所には、細い線が何本も束ねられていた。フレイアは、先ほど見つけた帰路の線をそこまで辿った。
束の奥へ、透けた手が触れる。
「ワタシを外せば、街も外れる」
水晶の中で、エドガーが木片を卓へ置いた。指が止まっても、彼の足元の光だけが、ゆっくり増え続けていた。
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