第42話 二つに分かれる道
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
伝令は、馬から下りる時に足をもつれさせた。
兵士が支えると、彼は礼より先に封書を差し出した。赤く点滅する通信の魔石からは、言葉にならない雑音だけが漏れていた。
「マギストベルグ北部、外郭突破。第三師団、およそ三千。ヘクセライ市街へ侵入を許しました」
オディリアは封書を受け取らなかった。レイドスが読み、彼女へ向けた。
防壁の破損箇所が記されていた。自分の研究室から見える、北門の名もある。
「アテナ様は?」
「中央の防壁を維持しておられます。ですが、通信陣が壊され……」
伝令の声が途切れた。水を差し出されても、まだ飲めずにいた。
オディリアは荷から巻物を出した。
帰還先はヘクセライの中央座標陣。登録した術者一人だけを送る、緊急用のものだ。封の上へ指を置くと、まだ向こうと繋がる反応があった。
「ワタシは戻ります」
レイドスがすぐに頷いた。
「僕たちも――」
「これは一人分です。増やせば、座標へ届きません」
「なら、街道を戻る」
「何日かかりますか」
言いながら、オディリアは地図を開いた。門へ向かうために越えてきた橋、崩れた峠。急いでも、今日の防壁には間に合わない。
レイドスはヘクセライの印へ指を置いたまま、動かなかった。
「だから、君一人に?」
「一人なら、今、届きます」
彼女は門を見た。石柱の向こうでは、赤い雲が流れている。
魔王軍の主力は人界へ出ていた。第三師団だけではない。その移動を待ち、城側の守りが薄くなるこの朝に合わせて、一行はここまで来た。
「ここから戻れば、魔王城への道が塞がれます」
「国を見捨てることになる」
「ワタシが行きます。見捨てません」
自分の声が大きくなった。通り過ぎる兵士たちが足を止める。
オディリアは息を整えた。
「守れるとは、約束できません。でも、あの防壁の術式はワタシが書きました。行くなら、ワタシです」
レイドスの顔から、最後の迷いが消えたわけではなかった。
彼は周囲の仲間を見た。一人が門を、別の一人が街道を見た。誰も、簡単に正しいと言わない。
「……分かった。こちらは城へ進む」
言い終えてから、彼はオディリアへ向き直った。
「帰る道はある?」
「転移は片道です。敵を退けた後は、街道を使います」
「追いつくことより、生き残ることを考えて」
「分かっています」
分かっている、では足りない顔をされた。
オディリアは巻物を持ち直した。
「祭りの用意を、ワタシ以外の誰がするのです」
レイドスが一度、目を伏せた。
「柱は、僕が立てるんだったね」
「ええ。忘れないでください」
青年は笑おうとした。それがいつもの笑顔になる前に、彼女は封を切った。
光の中で最後に見えたのは、差し伸べられかけた手だった。
足元が変わった。
中央広場の石は熱かった。転送陣の外周が欠け、帰還の光が消えると同時に、足元の文字も途切れた。
戻れた。だが次に使えるとは思えない。
「オディリア様!」
片腕を吊った兵士が駆け寄った。
オディリアは杖を立て、飛んできた破片を止めた。鐘の音が重なりすぎて、どの方向の警報か聞き取れない。
「中央防壁へ。動ける術師を集めてください」
「北門は、もう」
「分かっています。市民はどこです」
「地下と、南の倉庫へ」
彼女は地図ではなく、目の前の通りを見た。南へ抜ける道へ敵を入れない。倒す数を増やすより、まずそこを残さなければならなかった。
アテナは防壁の制御台にいた。
白髪に煤がつき、片方の袖は肘からなかった。オディリアを見るなり叱るかと思ったが、師は短く言った。
「右の線を頼む」
彼女は手を置いた。壁を押す力が、掌から肩へ伝わる。
「勇者は」
「城へ」
「そうか」
それだけで、師は次の指示へ移った。
オディリアも謝らなかった。荷物を降ろす間すら惜しい。
防壁の割れ目へ氷を継ぎ、進入した敵を路地で止める。敵は仲間が倒れても退かなかった。足を断たれた者が這い、壁へ貼りついたまま自分を爆ぜさせる者もいた。
何をそこまで急ぐのか。
問いを考える前に、次の攻撃が来た。
避難路の角で、若い術師が敵を追いかけようとした。オディリアは呼び止めた。
「壁の穴を塞いでください」
「逃げられます!」
「その奥に市民がいます。追うのは後です」
若い術師が戻ると、壁の穴から、小さな子を抱いた人が出てきた。オディリアはその背が角を曲がるまで、穴を塞がせなかった。
午後、南の避難路が開いた。
兵士が市民を誘導している間だけ、オディリアは壁の上へ出た。第三師団の巨体が、外側から門を押している。師団長だと知らせる声が上がった。
彼女は槍を一本、二本と重ねた。鎧に弾かれ、砕ける。
呼吸をするたび喉に血の味がした。残った魔石は空になり、自分の身体から力を引き出すしかない。
下では、アテナたちが壁を支えていた。
一人ではない。
オディリアは足場を確かめ、門の金具へ氷を這わせた。巨体の足が止まったところへ、角度を変えて槍を撃ち込む。
壁が揺れた。
師団長は石へ縫いつけられ、まだ片腕を動かした。彼女は次の槍を作ろうとし、指先から血を落とした。
下から、別の術師の光が飛んだ。
その一撃で巨体が止まり、門を叩く音が消えた。
夕陽が、城壁の欠けた縁へかかっていた。
残党を追う兵士の声が遠ざかる。オディリアは座り込んだまま、杖を手放せなかった。
「担架を。戦える者ではなく、動けない者から運んで」
自分の声が他人のもののように聞こえた。
街には火が残っていた。救えた人数は、まだ数えられない。それでも敵が進むのを止めた。これから人を捜せる。
アテナへ報せようと、通信の石へ触れた。
すぐ横で、乾いた音がした。
城壁へ縫いつけた巨体の口が動いていた。息はない。胸も動かない。
「……任務、完了」
生きている声ではなかった。
オディリアは身を起こした。巨体の首筋へ、見覚えのない紫の線が走る。鎧の隙間が膨らみ、留め金が一つ飛んだ。
何を運んできた。
彼女は死体を外へ落とそうと杖を向けた。しかし氷は城壁と深く噛み合い、巨体を繋ぎ止めている。
自分が、そこへ固定した。
「門から離れて!」
兵士が顔を上げた時、鎧の内側から紫の煙が噴き出した。
◆
オディリアの杖先が、同じ線をなぞり始めた。フレイアはその先へ指を出し、輪が閉じる前に止めた。
窓の下で、エドガーが鳥を落とした。拾う前に、店主から新しい木片を受け取っている。
「今、何を繋いだ」
「……朝に戻す線」
オディリアは杖を引いた。戻しかけた手を、もう片方で押さえる。
フレイアは線を押さえたまま、水晶の中の男が鳥を拾うまで待った。
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