第41話 約束の祭り
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
魔界へ続く門は、夜になっても閉じなかった。
黒い石柱の間に、別の空が見える。赤黒い雲が流れ、ときどき遠い稲妻が走った。見張りの兵士が交代するたび、オディリアは杖の接続を確かめ直した。
魔石に緩みはない。術式の継ぎ目も問題ない。
それでも、もう一度触れた。
「その石、削れてしまわない?」
レイドスが立っていた。
「点検です。明日は簡単に戻れませんから」
「何度目?」
「数える暇があるなら、あなたも剣を見たらどうです」
「見たよ。欠けたところは研いだ」
彼は隣へ座った。手には葉包みが二つある。片方を膝へ置き、もう片方を差し出した。
「夕食を食べていなかったろう」
「必要な分は摂りました」
「干した果物を一切れだけ」
見られていたらしい。オディリアは包みを受け取った。
葉を開くと、白い米の塊が現れた。黒い海藻が脇へ貼りつき、上の角だけが大きく傾いている。
「崩れているようですが」
「まだ崩れてはいないよ」
「何ですか、これは」
「おにぎり。故郷では、こうして持って出かけるんだ」
レイドスは自分の包みを開いた。そちらはさらに丸く、どこを正面にするのか分からない。
「近くの村で米を分けてもらえたから。久しぶりで、形は少し忘れた」
「少し?」
「味は覚えているつもり」
オディリアは端をかじった。歯に柔らかな米が触れ、少し遅れて、塩味のある魚が出てきた。温かい。冷えた指が、米の熱を逃さないよう包みを握り直した。
「中へ入れる理由は」
「別々に持つと、魚だけ先に食べてしまうから」
「あなたが、でしょう」
青年が笑った。
近くの焚き火で薪が倒れた。いつもならその音にも杖を確かめたが、今は両手が塞がっていた。
「故郷というのは、どんな所ですか」
食べながら尋ねると、レイドスは門の向こうではなく、夜空を見た。
「遠いよ」
「距離ではありません」
「そうだな。これをもう少し上手に作る人がいる所かな」
「ほとんど、どこでも当てはまりそうですね」
「厳しいな」
答えをはぐらかされた気はした。けれど、彼が自分の故郷の話を深く尋ねなかったことを思い出し、それ以上は聞かなかった。
最後の米粒を拾い、葉を畳む。
「悪くありませんでした」
「よかった」
「空腹の時には」
「その条件は、たいていの料理にあるよ」
今度は笑いそうになり、オディリアは口を結んだ。
門の向こうを稲妻が横切った。
明朝、あそこへ行く。主力の遠征で城側の守りが薄い間に、魔王へ届かなければならない。地図では線を引ける道も、向こうでは何が待つか分からなかった。
「怖くはないのですか」
オディリアは杖を見るふりをした。
「怖いよ」
「あなたでも?」
「僕にも、痛いものは痛い」
レイドスは指の新しい傷を見せた。薪を割る時につけたという。
「魔族の剣は避けられても、薪では怪我をするのですね」
「薪は油断させるのが上手い」
たまらず、小さく息が漏れた。笑ったのを見られぬよう顔を背けると、彼も追いかけるようには見てこなかった。
沈黙が続いた。無理に埋めなくてもよい静けさだった。
「ワタシの村では、この時期に祭りをしていました」
気づくと、話し始めていた。
中央に柱を立て、布を渡す。家ごとに作った料理を持ち寄る。子供には光を打ち上げる役が与えられ、失敗すれば誰かの髪に小さな火の粉が落ちる。
「上手な人だけがやればよいのに、と、いつも思っていました」
「オディリアは上手だった?」
「もちろんです」
「だろうね」
「でも、最初の年は、屋根に当てました」
青年は笑いかけたが、彼女が続けるのを待った。
「父に、低すぎると言われました。翌年は高くしすぎて、誰も見ていなかった」
「難しいなあ」
「そうです。人に見せる魔法は、威力だけでは決まらない」
言ってから、そんなことを覚えていた自分に驚いた。
何年も考えなかった。考えれば、柱も家も燃える夜へ戻ってしまうので。
「戦いが終わったら、見てみたいな」
オディリアの指が止まった。
「村は、ありません」
レイドスは顔を向けた。
「焼かれました。祭りを覚えているのも、たぶんワタシだけです」
「……ごめん」
彼女は首を振った。謝られるために話したわけではない。
葉の端を折り続けていると、青年が静かに尋ねた。
「別の場所では、できないかな」
「同じにはなりません」
「うん」
「料理を作る人も、柱を立てる人も、いない」
「柱なら、僕も立てられる」
「料理は、あの形ですか」
彼が自分の空の包みを見た。
「練習はするよ」
オディリアは、それをすぐに無理だと言えなかった。
ヘクセライには広場がある。傷の治った兵士も、研究室に籠もる学徒もいる。父が立てた柱は戻らないが、別の柱を立てる場所はあった。
その光景を想像したことが、急に後ろめたかった。
「楽しんでも、いいのでしょうか」
レイドスは軽く頷かなかった。
「僕が許すことではないと思う。でも、君が開くなら、行きたい」
彼女は焚き火を見た。
平和になった広場。槍を直すためでない魔法。空を見上げる人の列に、この男がいる。
「では、開きます」
「本当に?」
「約束してください。あなたも来ると」
「うん。行くよ」
「勇者の仕事で忙しい、などと言わせません」
「先に予定を取られてしまったな」
レイドスが手を差し出した。
門前で会った日には握らなかった手だった。オディリアは包みを膝へ置き、その手を取った。傷のある指が、思ったより温かい。
「忘れないでください」
「忘れない」
握ったままでいることに気づいて、彼女は手を離した。
眠る前に、オディリアは帳面の空白へ小さな円を描いた。
火球の陣ではない。熱を持たず、空で色だけを広げる術だ。まだ戦いが終わってもいないのに、こんなものを描いている。
ページを閉じようとして、やめた。
消さずに荷へ入れる。
翌朝、門の前へ集まった時、杖の点検は一度で終わった。オディリアは帳面の入った袋を肩へ掛けた。
レイドスが何か言おうとして、顔を上げた。
通信係の魔石が赤く瞬き、続いて街道の遠くから、馬を急がせる声が聞こえてきた。
◆
塔の床へ、窓枠の影が落ちていた。針は止まったままなのに、その影だけが伸びている。
フレイアは輪の外へ指を滑らせた。幾重もの光の中に、一つだけ違う向きへ折れたものがあった。馬車から門へ続く、まだ新しい線。
「これか」
オディリアが頷きかけた時、水晶から笑い声がした。
エドガーが、木彫りの鳥をもう一つ削り始めていた。
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