第40話 選ばなかった命
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
村の入口で、車輪が割れた皿を踏んだ。
レイドスは馬が止まる前に飛び降りた。オディリアも杖を取り、灰の積もる道へ下りる。火はすでに小さくなっていたが、息を吸うと喉の奥が痺れた。
「布で口を覆って。建物には触らないでください」
まだ残る毒の術式を示すと、兵士たちは風上へ荷車を寄せた。
井戸の脇で男が倒れていた。胸元の布は黒く、息をするたび傷の中で泡が潰れた。レイドスが膝をつき、名を尋ねる。
返事はなかった。ただ男の手が、彼の腕を探した。
「敵はもういません。ここにいますから」
オディリアは止血布を渡した。男は一度だけ、握る指へ力を込めた。それきり息を吐かなくなった。
布を押さえていたレイドスは、しばらく手を離さなかった。
助かると言わなかったことだけは、彼女にも分かった。
泣き声は道の反対側からした。
屋根の落ちた家の奥に、少女が挟まれていた。顔は見える。だが梁が胸の上を横切り、足元には壁が崩れている。
「そこから動かないで」
レイドスが声をかけ、オディリアは入口で魔力の筋を調べた。触れた杖先が紫に曇る。普通の煙ではない。
その時、背後で兵士が呼んだ。
「こちらにも生存者が!」
若い男が塀にもたれていた。村の警備兵らしい。腕に剣傷はあるが、今彼を苦しめているのは呼吸だった。唇の色が変わっていく。
オディリアは薬箱を開けた。
毒に対応する薬は一本。補給は二日先だ。量を半分ずつにして効く保証はない。むしろ二人とも効き始める前に悪化する可能性が高かった。
「外の彼なら、今飲ませられます。まだ飲み込める」
レイドスへ瓶を見せる。
「少女は?」
「薬を入れても、引き出せるか分かりません。胸を押さえられている。梁を動かせば、上も落ちます」
青年は家を見た。小さな手が、隙間から伸びていた。
「僕が梁を支える」
「支えたまま、どうやって運ぶのですか」
「他の人に引いてもらう」
「間に合うとは限りません。先に外の人へ――」
少女が咳をした。泣き声が途切れた。
レイドスが瓶へ手を伸ばした。
オディリアは反射的に握り直した。青年の視線が、彼女の指へ落ちる。
「彼も、生きています」
「分かっている」
「分かっているなら」
答えは返らなかった。
レイドスは瓶を取り、家へ入った。
崩れる音に、オディリアは杖を上げた。
彼を追って中へ入れば、外の男のそばには誰もいなくなる。動ける兵士の一人に救出の補助を指示し、自分は警備兵の横へしゃがんだ。
「名は」
男は口を動かした。二度聞いて、ようやく聞き取れた。村外れに妻がいるという。逃がした、と続けかけて咳き込む。
彼女は首元を緩め、少しでも息がしやすいよう背を支えた。治癒術で傷を閉じることはできても、吸い込んだ毒までは取り去れない。薬を探すように、空の箱へもう一度目が向いた。
家の中から、梁を支えろという声が聞こえた。
男の指が、空になった薬箱へ触れた。
何を聞かれるのかと思った。だが彼は何も言わず、浅い息を繰り返した。
オディリアは、その手を箱から外して握った。
少女は運び出された。
レイドスの背には裂けた傷があり、兵士の一人は手首を痛めていた。少女は息をしている。目を開けることはなかったが、薬が効き始めたらしく、唇へ僅かに色が戻った。
警備兵は、夜明け前に死んだ。
レイドスが戻った時、オディリアは遺品を布に包んでいた。腕章と、曲がった鍵。服に縫いつけられた小さな袋からは、銅貨が三枚出てきた。
「名前を、教えて」
彼に告げると、レイドスは同じ名を繰り返した。
「薬を使えば、助かったのですか」
オディリア自身、誰に聞いているのか分からなかった。
「分からないよ」
「でも、試せました」
「うん」
「あなたが渡さなかったから、試せなかった」
レイドスは俯いた。少女を救ったと、言い返しはしなかった。
「僕が、あの子を先に選んだ」
「後悔していますか」
「している」
オディリアは遺品の包みを彼へ渡した。忘れないと言うだけなら、いくらでも言える。まず、これを持ってほしかった。
青年は両手で受け取り、荷の中へしまわず、膝に置いた。
夜が明けたら、村外れを捜すことになった。
妻の行方は、その日には分からなかった。
避難してきた住民へ託すため、レイドスは男の名と、見つけた場所を書いた。最初の一枚には、薬のことがなかった。
彼は読み返し、紙を裏返した。
書き直すところを、オディリアは黙って見ていた。
少女は隣の村へ運ばれた。まだ目覚めていなかった。荷車が去ってからも、遺品の包みはレイドスの膝にあった。
野営で、レイドスが茶を差し出した。
オディリアは受け取ったが、飲まなかった。
「谷では、迷いませんでしたね」
「何のこと?」
「敵を殺す時です」
彼の手が止まった。
「迷っていたら、君に剣が届いていた」
「人を助ける時も、同じようにできると思いましたか」
レイドスは火を見た。返事まで、薪が二度爆ぜた。
「そうだったのかもしれない」
いつもの笑顔はなかった。けれど少し離れた場所で兵士が立つと、青年は顔を上げ、明日の道順を伝えた。声は落ち着いていた。
兵士が戻った後、オディリアは尋ねた。
「それも、勇者の仕事ですか」
「皆が眠れる方がいい」
「あなたは?」
青年は茶碗を両手で包んだ。
「少し後で」
オディリアは冷めかけた茶を飲んだ。彼が怖くないから笑うのではないことを、初めて身近に感じた。
「魔族を見つけたら、全員殺せば、こんな選択をせずに済みます」
「襲ってきた相手は倒す。でも、剣を持っていない者は?」
「いずれ持つかもしれません」
「持たないかもしれない」
「希望で仲間を危険にさらすのですか」
レイドスは答えを急がなかった。
「一人で決めてはいけないね。昨日も、僕はそうした」
オディリアは冷めた茶を置いた。器の縁に、薄い葉が一枚残っていた。
机のない膝の上へ、退避術の紙を広げる。薬が来るまでの時間を、ほんの一晩だけでも作れないか。彼女のペンは、帰り道の途切れた線をなぞった。
「何を調べているの?」
「まだ使えない術です」
「できたら教えて」
オディリアは顔を上げなかった。
教える日を思い浮かべた自分に、少しだけ驚いていた。
◆
フレイアは返事をせず、エドガーの線へ目を戻した。
彼が客へ差し出した鳥を、少女が受け取る。礼を言われると、彼は笑った。フレイアへパンを渡した男の顔だった。
その笑みの下で、帰路へ続く線がまた細くなる。
「レイドスは、そなたへ何を約束した」
オディリアは杖を握り直した。
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