第39話 笑う勇者の剣
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
「あの人は、初めて会った時も笑っていた」
オディリアが言った。
フレイアは線へ指を置いたまま、次の結び目を尋ねた。市場から声が届く。エドガーは客へ、鳥の翼を削り直すと言っていた。
◆
差し出された手には、小さな切り傷がいくつもあった。
「初めまして。レイドスです」
金髪の青年は笑っていた。人界連合の門前には兵士が並び、彼の肩にある銀鎧だけが朝日を返している。
オディリアは手を見てから、顔へ視線を戻した。
「オディリアです。出発はいつですか」
「明日の予定だけど。長旅だったろうし、今日は――」
「休むために来たのではありません」
伸びたままの手が、少し下がった。
隣の兵士が咳払いをしたが、レイドスは気にした様子もなく手を引っ込めた。
「分かった。荷を置いたら、道順を相談しよう」
「あなたは、いつもそうして笑っているのですか」
「初対面から怖い顔をするのも、どうかと思って」
「顔で魔族は倒せません」
「うん。それは試したことがないな」
冗談のつもりらしい。オディリアは返さず、門を通った。
アテナの言いつけどおり、名前は最初に言った。それで十分だろう。
旅の三日目、予定表に最初の遅れが書き込まれた。
橋の手前で荷車が傾き、道を塞いでいた。レイドスは鎧を外すと、車輪の下へ肩を入れた。
「そのまま。軸を差してください」
荷主が木槌を振るう。オディリアは道端で時刻を確かめた。
「脇を抜ければ通れます」
「僕たちはね」
「全員分の旅を引き受けるのですか」
青年は答える代わりに、滑った車輪を支え直した。指の傷から血が滲む。
その後も、迷子の親を捜し、食料のない家へ干し肉を分けた。出発の鐘に遅れたのは、オディリアではない。
夕食で差し出された薄い粥を見て、彼女は匙を止めた。
「善行の代金を、全員で払うのですね」
レイドスも粥を見た。
「相談せずに分けたのは悪かった」
「次は気をつける、と?」
「そうする。君の分まで僕が決めてよかったわけじゃない」
開き直られると思っていたので、返す言葉が一つ余った。
オディリアは粥を食べた。翌朝、彼は物資の配分を相談に来たが、困った人間の前で足を止める癖は直らなかった。
峡谷へ入った日の夕方、先頭の馬が耳を伏せた。
オディリアは杖を上げた。斜面の岩陰に魔力がある。ひとつではない。
「下がって。上にいます」
矢が落ちてきた。
レイドスが御者を引き倒し、二本目を剣で弾いた。オディリアは岩の継ぎ目へ氷を走らせる。足場を失った弓手が転落した。
「左を塞ぎます。荷車を戻してください」
火の壁を立てると、奥から悲鳴が上がった。人の声が混じる。
杖を握る手が、一瞬止まった。
「捕虜がいる」
レイドスも聞いたらしい。兵士へ馬を任せ、壁際へ進もうとする。
「声だけです。誘われているかもしれません」
「確かめる」
「その間に囲まれます」
彼女は先に走った。岩陰の敵へ氷槍を放ち、退路に雷を落とす。倒した数だけ、潜む気配が減っていく。
割れた岩の向こうに、黒鎧の魔族がいた。
腕の中には子供がいた。細い首へ剣が当てられ、頬に涙の筋が見える。
「止まれ」
オディリアは止まらなかった。相手の額へ狙いを定める。
子供が口を開いた。声にならない息。焼けた故郷の戸口で、同じように何か言おうとしていた顔が重なった。
杖先がわずかに下がった。
その足元で、黒い線が輪になった。
しまった、と思った時には足首が動かなかった。腕も、喉も締めつけられる。放ちかけた氷槍だけが飛び、黒鎧を倒した。
子供は泣かなかった。
地面へ落ちた身体が割れ、湿った土を露わにした。
「よくできていたろう」
岩の裏から、別の魔族が出てきた。肩には大剣。オディリアは指を曲げようとした。杖へ魔力を通すたび、黒い輪が熱を増す。
術を使わせて焼く拘束だった。
敵の剣が上がった。
鋼がぶつかる音がして、刃の先だけが彼女の足元へ落ちた。
レイドスが立っていた。
「目を閉じて」
閉じる前に、敵の腕が飛んだ。
レイドスは下がらずに懐へ踏み込み、鎧の隙間へ剣を入れた。相手が倒れるより早く、岩陰から迫る次の刃へ向き直る。
速い、と思った。だが、彼の足はむやみに動いていない。
踏み込む相手の足場を奪い、盾を持ち直す間に首へ届く。叫ぶ余裕も、剣を振り直す余地も与えない。試験記録の数字が、ようやく形を持った。
オディリアは、次の敵を数えようとして忘れた。
最後の一体が弓へ手を伸ばした時、青年はもうその前にいた。
動くものがなくなると、彼は剣を引いてオディリアの横へ戻った。
「術の継ぎ目は?」
彼女は視線で、左足の下を示した。
石が割られ、黒い輪が消えた。支えを失って膝が折れる。レイドスが腕を取った。
「歩ける?」
「……歩けます」
声が掠れていた。喉の圧迫が消えたのに、息の仕方が分からない。
彼の目は、いつもの青い色だった。だが先ほどまで、そこから笑みは完全になくなっていた。
「捕虜は」
「奥に二人。兵士に頼んである」
連れてこられた二人の足には、縄の跡があった。一人は自分で立てず、兵士の背に負われていた。魔法で探った数だけでは、人がどこでどう捕らわれているかまでは分からなかったのだ。
オディリアは腕を離した。
「拘束の仕組みは、分かっていました」
「うん」
「助けがなければ死んだと、言うつもりですか」
「無事でよかったと言うつもりだった」
彼は少しだけ笑った。
それが、ひどく落ち着かなかった。笑っていた男が敵を殺したことより、殺した直後にまた同じ顔でこちらを気遣えることが。
荷車へ戻ると、救い出された捕虜の一人が、水袋を握っていた。オディリアを見て頭を下げようとし、痛みで身体を丸める。
彼女は目を逸らし、清潔な布を隣へ置いた。
レイドスは少し離れた場所で剣を拭いていた。勝利を誇る様子はなく、刃こぼれに爪を当て、使える箇所を確かめている。
「あなたは、怖くなかったのですか」
尋ねると、彼は顔を上げた。
「間に合わないかと思った」
オディリアは、自分の質問を説明し直すのをやめた。
敵へ向ける剣には、ためらいがなかった。では助ける相手を選ぶ時にも、この男は同じように動けるのだろうか。
その夜、谷を抜けた先の村から、煙が上がっていた。
◆
オディリアの杖が止まった。フレイアは自分の指も止めた。
「その先は」
「村が、焼かれていた」
階下で、客を呼ぶ声が途切れた。水晶の中でエドガーが顔を上げ、誰かに呼ばれたように辺りを見た。
フレイアは咄嗟に名を呼びかけ、唇を閉じた。指先の線が、彼女の声にも反応していた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
続きも読みたいと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




