第38話 百年間、待っていた者
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
扉の文字は、三つの役目を重ねていた。
中へ入る者を選ぶもの。街の異変を集めるもの。そして、集めたものを元の形へ戻すもの。
最も新しく、最も乱れているのは、最後の線だった。
フレイアはその線を避け、錠の上へ指を置いた。戸を守る術だけを押し退ける。蝶番が軋み、わずかな隙間が開いた。
広場の誰も、こちらを見なかった。
内側には、戦況を記す盤が壁いっぱいに並んでいた。
北門。第二防壁。転送座標陣。
名前の下に刻まれた部隊の符号は、百年前の人間の軍が使ったものだった。フレイアは全てを読めないが、いくつかは戦場で見ている。
観測用の水晶には、今の市場が映っていた。
エドガーが刃物を動かしている。削りすぎた鳥の翼を、指でなぞって首を傾げた。
水晶の下で、細い光がまた一本増えた。
彼が何かを受け入れるたび、街が彼を覚えていくように見えた。
階段の途中には、門と同じ形の円があった。
外へ伸びる線が、帰るための線を押し潰している。中枢から漏れ出した術が外来者を拾い、ここへ繋いだのだろう。
フレイアは自分の胸へ手を当てた。
脈はある。呼吸もできる。それでも、指へ返る魔力の感触と、自分の身体の位置がわずかにずれていた。
食べても腹に落ちない果物だけが、偽物なのではない。
確かめる前に、上の階から声がした。
「そこにいるのは、誰」
最後の段を上がると、止まった時計の裏側へ出た。
大きな歯車の前に、少女が立っている。
青い髪。黒い外套。手にした杖は、腕を支えるほど長い。十代の終わりに見えたが、その輪郭の向こうに、歯車の縁が透けていた。
少女の目がフレイアの角で止まる。
「……ハイデルの娘」
声から、迷いが消えた。
「第一師団長。フレイア」
床が鳴った。
フレイアは半歩引いた。爪先のあった場所を氷が貫く。続けて放たれた火を障壁で受け止めると、壁の術式まで一緒に震えた。
反撃はしなかった。
「昔の役職を、よく覚えておる」
「忘れると思う?」
「貴様の名は」
返事の代わりに、雷が走った。
彼女の障壁へ当たり、枝分かれして消える。窓の下で、一瞬だけ売り声が途切れた。
フレイアは少女の杖を見るより先に、そちらを見た。
「攻撃をやめろ。街へ響いておる」
「誰が、そんなことを言わせたの」
「我の連れを返してもらう」
少女は、窓の下へ目を向けた。
エドガーの露店を見つけるまでに、少し間があった。
「あの男と一緒に来たの?」
「馬車でな。霧へ触れた時から、帰り道が消えた」
「そんなはずはない。外へは繋いでいないわ」
少女の目が、階段脇の線へ移った。
怒りを忘れたように、膝をついて手を当てる。
「どうして……こんな所まで」
「長く維持していたのだろう」
「少しずつ、直していたのよ。傷んだ所は。その間にも、また別の場所が……」
言葉が止まった。
フレイアは、錠よりも新しかった乱れた線を思い出した。直すための継ぎ足しが、初めの形を覆い隠している。
「外の戦争は終わった」
静かに言うと、少女が顔を上げた。
「父はレイドスに討たれた。あれから、およそ百年になる」
「……百?」
「我は今、王位を継いでいる。人間と魔族の国交も戻った。少なくとも、ここにいた軍と同じ軍が外を囲んでおるわけではない」
「嘘よ」
「信じぬのは構わぬ。だが、それを理由に我らを留めるな」
少女は歯車を見上げた。
何日待ったか、数え直そうとするような目だった。
「三十年か、もっとかとは、思っていた。でも……」
杖の石突きが床を擦った。
フレイアは、窓辺へ近づいた。
町の人々から伸びる線が、階下の盤を通して、少女へ集まっている。
「住民の身体は、どこにある」
「あるわ。外に」
「貴様もか」
「……ええ」
「我らは」
少女は、壁の円へ目を向けた。
「後から入ったなら、門の退避陣が拾ったはず。身体を傷つけずに意識を引き込むための、仮の眠りがある」
「馬もそこか」
「分からない。人の営みを持たないものは、眠らせたままのはずだけれど」
分からないという答えに、フレイアは目を細めた。
自分の国へ誰が入ったかも、何が残ったかも、この少女には見えていない。
ただ、街の声だけが絶えず届いている。
「ならば、眠った身体へ戻せ」
「一人だけ外すことはできない」
「仕組みを示せ。我が調べる」
少女は杖を握り直した。
攻撃が来ると思ったが、壁の文字が淡く開いただけだった。幾重もの線が、同じ結び目へ入っている。
個々を守るはずの隔たりがない。どこかを持ち上げると、周りもついてくる。フレイアが市場でエドガーへ触れた時と同じだった。
「壊せば、術は終わるのだな」
「そうよ。ワタシごと壊せば」
「外に身体があるなら、戻ればよい」
「百年も経っていたと、今お前が言ったでしょう」
少女の声が、震えた。
「ワタシの魔法は、身体を治せない。ここへ入れたのは、死なないうちに逃がすためだった。毒が消えるまで。助けが来るまで」
「身体を確かめたのか」
「戻った瞬間、毒が残っていたら?」
「確かめてはおらぬのだな」
「確かめられなかったのよ!」
床の色が剥がれた。
一瞬、フレイアは瓦礫の中にいた。
折れた梁。踏まれた旗。喉を押さえて倒れる兵士。石の隙間を紫色の霧が流れ、戸口の少女へ届く。
次に瞬きをした時、時計の裏へ戻っていた。
青い髪の少女が、肩を震わせている。
「お前たちの軍が来たのよ。守れと言うなら、最初から来なければよかった!」
フレイアは答えなかった。
杖を握る少女の指が震えていた。
しばらくして、フレイアは窓の下へ目を戻した。
「我の連れは、ここに住むと決めておらぬ」
「ここでは、誰も傷つかない」
「さっきの術で、あの男は我を忘れかけている。それは、傷ついておらぬということか」
少女は唇を噛んだ。
答えがないまま、町の声だけが響く。
「名を聞かせろ」
「魔族へ話すことはない」
「では、先に我が話そう」
フレイアは、レイドスに敗れた時のことを話した。
とどめを刺さず、人間の世界を見るように言った男のことを。
人間が滅ぼすべきものなのか、自分の目で知れという、奇妙な命令のことを。
最果ての国へ行けと言われたことまでは、まだ口にしなかった。
少女は、初めて杖を下ろした。
「レイドスが、あなたを生かしたの」
「そうだ」
「本当に、あの人が」
「貴様も知っておるのか」
少女は返事をするまで、何度か息を吸った。
「オディリア」
小さく、名乗った。
「ワタシは、あの人と旅をしていた」
フレイアの後ろで、広場へ繋がる水晶が光る。
エドガーの声がした。
明日は店へ寄ってくれと、客に頼んでいる。
オディリアはその声を聞き、手を握り締めた。
「あの人が街へ来るまで、待っているつもりだったの」
水晶の下に、新しい光が一本刻まれた。
「次の朝で、あの男の役が固定される」
オディリアは市場へ伸びる線を押さえた。
「今なら、戻る繋ぎ目が残っている。でも一人を外そうとすれば、ほかの人も――」
「その線を見せよ」
フレイアは床へ膝をついた。細い分岐を辿ると、水晶の中でエドガーが首を傾げた。
彼女は力を緩めた。刃物を持つ彼の手が、また動き始める。
「レイドスを知っておるなら、話せ。調べながら聞く」
オディリアは杖で、最初の結び目を示した。
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