第37話 忘れた男、覚えている少女
お読みいただき、ありがとうございます。
どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
帳面には、昨夜の文字が残っていた。
霧。門。帰れない道。食べた感じのしない果物。
エドガーは自分の筆跡を指でなぞってから、窓の下の少女を見た。
「夢じゃねえよな」
「貴様は夢の中で帳面を書くのか」
「書かねえと思うが、夢のことまで保証できねえ」
いつもの口調だった。それが、この朝はありがたかった。
二人で門へ行くと、昨日と同じ兵士が歓迎した。
泊まったことを伝えると驚いたが、すぐに宿の料理の話になった。門の外へ歩くたび、薄い白さが目を横切る。二度試しても、戻ってくるのは同じ敷石だった。
「違う門はないのか」
「西門なら、今は祭りの荷を入れています」
そこでも同じだった。
フレイアは強く壁を押す代わりに、その表面へ魔力を流した。薄い殻のつもりで触れたものが、街の奥まで根を張っている。
帰り道だけを切り開くには、繋がりを調べる必要があった。
時計塔の扉は、前日と変わらず閉まっていた。
「長はお休みです。明日なら」
取次の女が言った。
「昨日も、そのように聞いた」
「昨日、いらしたのですか?」
困った顔は、嘘を見つけられた者のものとは違った。
だが、それで信用してよいわけではない。
フレイアは扉へ掌を当てた。昨夜この街を揺らしたものと、同じ魔力が伝わってくる。中枢はここだ。無理に破れば、閉じ込められた者へも影響する。
「今日は、ここから調べる」
「俺は馬を見てくる。昼には宿で会おう」
エドガーが言った。
まだ、別々に動くことを疑う理由はなかった。
昼、彼は少し遅れて戻った。
「広場で骨組みを持ってくれって頼まれてな。二人じゃ足りないとかで」
「馬は」
「大丈夫だ。飼葉も……いや、餌をやったのは朝だったか」
帳面を見て、笑う。
「変な街にいると、こっちまで変になる」
フレイアは食卓のパンを退け、鞄の乾パンを渡した。
エドガーが齧る。その手に木屑がついていた。
「彫り物もしていたのか」
「ちょっとな。向こうの店で刃物を借りた。俺のじゃ細かい所がやりにくい」
鞄から、小さな木片を取り出した。
一方だけ盛り上がった背中。尖った嘴らしきもの。昨日、荷台から持ち出した端材だった。側面に残る釘穴を、フレイアは覚えていた。
「鳥だ」
「芋に見える」
「まだ途中なんだよ」
彼は笑った。
なぜか、フレイアは笑い返せなかった。
その夜は、二人とも眠らないことにした。
エドガーは帳面に日付を重ねて書く。フレイアはその文字の端へ、消されれば分かる小さな魔力の印をつけた。
夜半、彼の呼吸が途切れた。
身体が倒れたわけではない。卓に置いた手も、目の向きも、そのままだった。呼びかけても反応がなく、周囲の色だけが薄くなる。
フレイアは肩を掴んだ。
白く揺れた視界の向こうで、彼が瞼を上げた。
「……朝から何だよ」
窓の外では、リナが転ぶところだった。
この街へ来てから、二度目の夜が終わった。
帳面の文字は残っている。魔力の印も消えていない。
それでもエドガーは、昨夜それを書いたことを覚えていなかった。
「俺の字だな」
「そうだ」
「でも、何だこの門の話。俺たち、いつから出られなくなったんだ?」
「初めからだ。来たのは一昨日だぞ」
エドガーは何か言いかけ、やめた。
自分の書いた文字を、知らない商人の帳簿のように読み直す。
「だったら、今日の店は休まなきゃな」
「何の店だ」
「……何だろうな」
笑おうとした唇だけが動いた。
フレイアは彼を連れ、厩舎へ向かった。
シリウスとベガは、声をかけると顔を上げた。鼻先へ触れるエドガーの手つきに迷いはない。
車輪の目印も、積み荷も、そのままだった。
だが彼は、荷台に挟んだ地図を抜き取ると、長い間黙り込んだ。
「あの山から来たんだよな」
「そうだ」
「何があった?」
フレイアは答えかけた。
雪の下へ消えた洞窟。七人の欄。聞けなかった名前。
それを全部、彼が先に覚えていると思っていた。
「忘れたのか」
「思い出せねえんだ。あったはずなんだよ。あそこまで来る道が」
エドガーは、地図の山道を指で辿った。
指は道を外れずに動くのに、言葉が続かなかった。
ひとまず門や壁を調べるのはやめた。
フレイアは彼を宿へ戻し、鞄を持たせた。
「一人で出歩くな」
「病人扱いするなよ」
「我の名を言ってみろ」
「フレイア。怒ってると余計に怖い、旅の連れ」
答えは戻ってきた。
それなのに、彼はすぐ扉の方を見た。
「悪い。すぐ戻る。店先に品物を出さないと、親父さんが困る」
「その親父とは、いつ知り合った」
彼は口を開き、閉じた。
指先が、鞄の留め具を何度もつかみ損ねる。
「分からねえよ」
今度は怒った声になった。
「分からねえけど、待たせてる感じがするんだ」
連れて市場へ行くと、祭具の店主が手を上げた。
「エドガー、遅かったな。明日の分、頼むぞ」
昨日は旅人と呼んでいた男だった。
「この者は、いつからここで働いている」
「いつからって。もう長いですよ」
「何年だ」
店主の笑みが、わずかに止まった。
「長いんです。気のいい男でね」
答えながら、彼はエドガーへ前掛けを渡した。
エドガーの腕が、それを受け取ろうとする。
フレイアが間へ手を入れた。
「帰るぞ」
「待ってくれよ。ここにいると、何をすりゃいいか分かるんだ」
彼は彼女を見た。
「あんたの話を聞いてると、俺は何も分からなくなる」
その言葉に、フレイアの手が止まった。
店主は、前掛けを差し出したまま待っていた。リナが店の端から、鳥を一つ売ってほしいと頼んでいる。
エドガーは自分の木片を見た。
「これじゃ売り物にならねえな。もう少し待てるか」
「明日でいいよ!」
少女は答えた。
その明日が来ないと、彼はもう言わなかった。
フレイアは、エドガーの手首へ細い魔力を添えた。
引き離そうとすると、街中から張り巡らされた線が一緒に動く。彼をここへ繋ぐものが、昨日より深く入り込んでいた。
力任せに切ればよい。それができるなら、もうやっている。
フレイアは手を離した。
「待っておれ」
「どこへ行く?」
「貴様を、貴様へ戻せる者を探す」
彼は困ったように笑った。
「俺は、ここにいるぞ」
時計塔の扉まで、広場を横切ればすぐだった。
いつもなら、あの男が先に道を聞く。無駄な世間話をし、安い店まで教えられて戻ってくる。
今は彼女一人で、扉の文字を読むほかなかった。
背後から、よく通る売り声が聞こえる。
振り返ると、エドガーが客へ木彫りの鳥を見せていた。
彼女に気づいて手を上げたが、その目は、道に迷っていた客を見送る時のものだった。
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