第36話 人を守る魔法の使い道
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どうぞ、今回の旅もお楽しみください。
エドガーは窓から身を乗り出した。転んだ少女の膝には、もう傷が見えない。
フレイアは花壇の飾りを見た。昨日と同じ花弁が、風に逆らって曲がっている。
その向こうの時計塔で、窓が一つ閉じた。
◆
百年前、ヘクセライの北門の鐘は、もう鳴っていなかった。
石段を下りるオディリアの杖から、溶け残った氷が落ちた。門の外では兵士たちが死体を運んでいる。担架が足りず、壊れた扉を使う者もいた。
「十七の娘に、門一つを任せるものではないね」
踊り場で、白髪の老婆が待っていた。
「では、代わりを寄越してください。ワタシは研究へ戻ります」
「まず座りなさい、オディリア」
アテナが指した石段に、彼女は腰を下ろさなかった。杖を握る右手が震える。見られぬよう外套の内側へ隠したが、師はその手を引き出した。
指の間の皮が裂け、乾いた血で貼りついていた。
「威力を上げすぎたね」
「まだ足りませんでした。三体、外壁へ取りつかれました」
「三体とも死んでいる」
「次には、三十体になるかもしれません」
アテナは返事をせず、濡らした布を指の間へ入れた。痛みが走り、オディリアは息を止めた。
門の外から、兵士が一人、頭を下げて通り過ぎた。礼を言われるより、早く門を直してほしかった。この要塞都市ヘクセライが抜かれれば、背後のマギストベルグへ敵を通すことになる。地図上では細い線一本でも、その向こうには家も人もあった。
「守れた者を、一度くらい見ておいで」
「次も守るために、術式を直すのです」
「その手で?」
「左が使えます」
師の指が止まった。しばらく二人の間に、担架の取っ手が擦れる音だけが続いた。
研究室へ帰ると、オディリアは左手に羽根ペンを持った。いつもより大きく曲がった文字に腹が立ち、紙を一枚破る。
窓の下では、兵士が壁へ銀線を張り直していた。魔法使いの国の技術は、この都市で毎日試される。昨夜まで机上にあった陣が、翌朝には人を救い、あるいは術者ごと焼け落ちる。
彼女の氷槍は採用された。逃げる敵の足を縫い留める術も、厚い鎧を内側から砕く術も。
それでも、報告書の戦死者欄はなくならなかった。
ペンを落とした拍子に、机の下から別の紙が覗いた。
人の形を二つ描き、一方を細い線で囲ってある。精神を身体から分け、傷や毒の及ばない位相へ一時退避させる試案だった。
兵舎で、夜明けまで待てば薬が届くと言われた兵士が死んだ。その夜に描いた。
だが分ける計算はできても、戻す経路が閉じない。身体の方は置き去りのまま傷み続ける。何より、生きた人で試すわけにはいかなかった。
紙を槍の術式の下へ戻す。
敵を先に倒せば、こんなものは要らない。
オディリアは包帯を噛んで結び直し、右手へペンを戻した。
七代目の勇者が選ばれたと聞いたのは、その数日後だった。
アテナは茶を二つ置いた。書類の上に置かれた一つを、オディリアは黙って横へずらした。
「レイドスという。十八歳だそうだ」
「今度は、いつまで生きているでしょうね」
「会ってもいない相手へ、随分な挨拶だ」
「挨拶ではありません。戦力の話です」
師が持ってきた選抜記録には、剣術の評価が記されていた。基礎の型は下位。礼式も落第に近い。ところが最終試験の欄だけ、複数の対手に無傷で勝利、とある。
「書き間違いでは?」
「立会人は三人いるよ」
オディリアは紙を光へ透かした。偽造を調べるつもりではなく、数字をもう一度見たかった。
「小細工に、試験官が付き合ったのでしょう」
「小細工で兵士が死なずに済むなら、悪くない」
「魔族は試験の終了を待ちません」
「本人に教えてやればいいさ」
妙な言い方だった。彼女が顔を上げると、アテナはもう茶を飲んでいた。
数週間後、その意味が分かった。
人界連合の封書を開けたオディリアは、末尾まで読む前に椅子を引いた。
「誰の推薦です」
「私だよ」
「なぜ相談をしなかったのですか」
「相談すれば、話の途中で断っただろう」
「今から断ります」
勇者一行の専属魔法使い。出立の日取りと、必要な装備。その下には、彼女の後任が来る予定まで記されていた。
自分を外す相談だけが、知らないところで済んでいる。
「ここを捨てて、笑顔だけの勇者のお守りをしろと?」
「捨てろとは言っていない。私も残る」
「ワタシがいなければ、北門は――」
「先週の夜番は、弟子たちだけで守ったよ」
オディリアは口を閉じた。自分が意識を失っていた夜だ。目を覚ました時、敵の報告はなく、机には冷めた粥があった。
アテナは書類の端を押さえた。
「あんたの魔法は役に立っている。ただ、あんた一人しか役に立たないわけじゃない」
「では、なおさらワタシである必要はないでしょう」
「だから、外へ出てほしいんだ」
師は机の下からはみ出した紙を拾った。二つの人型の間には、まだ帰り道が描かれていない。
「これを、途中でやめたね」
「使えません。精神を保てても、身体は治らない。人を戻す保証もない」
「それを承知しているなら、捨てずに持っておいで」
「戦場で未完成の術を試せというのですか」
「違うよ。殺すほかの方法を考えた自分まで、忘れなくていいと言っている」
オディリアは紙を取り返した。焼いてしまえば、話は終わる。指先に灯した炎は、乾いた羊皮紙をたちまち灰へ変えるはずだった。
けれど、その前にあの兵士の顔が浮かんだ。
夜明けまで待てと言われ、何度も窓を見ていた。
彼女は炎を消した。
「勇者が弱ければ、足を引っ張るだけです」
「強ければ?」
「……見てから決めます」
アテナは笑わなかった。ただ、冷めた茶を新しく注ぎ直した。
三日目の朝、オディリアは研究室の鍵を返した。
荷には攻撃術式の帳面と、完成しなかった退避陣を入れた。北門の担当へ渡す注意書きは、結局、二枚で済む予定が七枚になった。
「そこまで書くなら、皆を信用しているんだね」
「読めばできるようにしただけです」
アテナは七枚を受け取り、順番を崩さず揃えた。
「では、行っておいで」
オディリアは頷きかけ、やめた。
「勇者が使い物にならなければ、すぐ戻ります」
「本人には、その順番で言わない方がいい」
「どういう順番ならよいのです」
「まず、自分の名前を言うんだよ」
門を出てからも、その忠告が妙に耳へ残った。
名乗るだけなら難しくない。だが名を告げた後に何を話せばいいのかは、敵の防壁を破る方法ほど、彼女には分かっていなかった。
◆
朝の街で、リナが輪を拾った。昨日と同じ手で、同じ花を直している。
エドガーが窓から下がり、枕元の帳面を取った。
「まず、これを確かめよう」
フレイアは時計塔から目を離し、卓へ戻った。
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